倒壊の恐れのある立入禁止区域にレッドの探し人はいた。そこはカントーの多くの人間にとって縁深く、幸いなことにレッドにはいまだ無縁の場所であった。
 ポケモンタワーの剥げた床を跨いで渡り、レッドは祈りを捧げるセージの背中に近づいた。解体作業に巻き込まれて怪我をしないようにと撒かれたシルバースプレーにより、この場所としては珍しく周囲にはポケモン一匹たりともいなかった。
 セージの傍らに膝をついて、レッドも真似て目を閉じてみる。
 純粋な暗闇が視界を塞いだ。天井近くを彷徨うゴースから漏れるガスの音や、わざと墓石をすり抜けて驚いた顔の参拝客を笑うゴーストの声も聞こえない。まさにここは死の世界のようだった。
 死んだカラカラのお母さんもここにはいない。どこにいるのだろうかと考えて、レッドはすぐに目を開けた。
 墓石の表に一対の美しい翅が彫られている。子どもの頃にトキワの森で幼なじみとむし捕り競争をして、どちらも最後まで捕まえることのできなかったポケモンによく似ていた。
「シバには会えたんか」
 ぼそりと聞かれて、レッドは首を縦に振った。
「握手してもらった……ピカチュウが」
 四天王の第二戦で憧れのエビワラーにかみなりパンチを叩きつけて、シバもピカチュウも鼻息荒く興奮していた。挑戦者のレッドだけがその場の感情についていけていなかった。
「チャンピオンには興味ないんか」
 その質問にはすぐに答えられなくて、レッドは隣を見た。多くのポケモントレーナーの憧れであるはずの元チャンピオンは、人気のない墓の塔でひとり静かに座っている。
「ぼくは……あなたに勝ちたくて」
「勝ってどうするん」
 改めて聞かれると、どうしようかとレッドは首を傾げた。
 マサラタウンを旅立って、レッドは一途にバトルに興じてきた。いつもグリーンに先を越されていたから自分にバトルの才能があるとは思わないが、強いトレーナーと戦うことはレッドにとって生きる喜びとなっていた。
 その旅の途上で出会ったセージからは言葉少なに勝負事や旅に関するアドバイスをもらった気もするが、レッドはそれよりも行く手を阻むロケット団員を相手取った巧みな場外乱闘に目を奪われていた。
 いつの間にかボールから飛び出ていた複数のポケモンを自分の手足の如く自在に動かして、ビルや道や木を目くらましに相手の意表を突く。この塔の最上階で冷静さを欠いたレッドがロケット団員に食ってかかったときには、後方で別の団員のスリープを影すら見せない乱れ突きで足止めしながらアリアドスの吐き出す頑強な糸でポケモンタワーの崩壊を防いでいた。レッドはフジ老人の無事を確認するまで戦いの余波に思いを巡らす余裕もなかった。
 レッドはまだ包帯の残るセージの手首をそっと掴んだ。この腕がもがれそうになったところをレッドは間近で見ている。トキワジムでサカキを見たときのセージのさざ波のような怒りと悲しみは隣に立つレッドにも伝わっていた。サカキとの戦いはまさに場外乱闘の極みであり、数的不利にありながら彼は自分のジムや手持ちのポケモン、そして対戦相手がどうなろうと全く気にする素振りも見せずに残忍な手口を使っていた。
 それは旅を経て経験を積んだはずのレッドにも知らない世界だった。
「……誰にも負けたくない」
 グリーンに負けたくないという思いを胸に抱いてマサラタウンを出発し、その意味がジムバッジをひとつ手に入れるごとに少しずつ変わっていった、とレッドは思う。
「誰にも負けないポケモントレーナーになる」
 それは希望ではなく実現すべき未来だった。でなければ失われてしまうものがあるともう知っている。
「……おれは弱くないで」
「だけどぼくが勝つ」
 はっきりと宣言すれば、セージは唇の先だけで笑っていた。いつもの無表情な顔の上にほのかなあたたかみが差す。
「もっと早うお前が生まれとったら」
 セージはそっとレッドの手を放させると、墓石に手を伸ばした。冷たい翅の輪郭を何かもろいものでも触るような優しさでゆっくりと撫でる。
「おれも待ち望んでたやろな、お前との試合を。でももうおれには無理や……がっかりしたか?」
「……わからない」
 セージとバトルができないことも、それに落胆しなければならないこともレッドにはわからなかった。ロケット団との共闘ではセージはレッドが想像だにしない戦術を次々と繰り出して彼らの戦意を喪失させていた。セージのバトルの腕前やそれを発揮するための体力が衰えているとはとても思えなかった。
「……お前には、チャンピオンよりももっと世の中のことを広く知ることの方が重要かもしれんな」
 セージがぼそりと言った。それはチャンピオンであるグリーンに勝って以来、初めてレッドが耳にする言葉だった。
「世の中……」
「まだ行ったことのない土地に行き、まだ見たことのないポケモンと出会えばお前は今よりもっと強くなるで」
 だからお前はまだ弱い、とレッドは言われた気がした。
 モンスターボールがかたりと反応して、レッドは腰に手をやった。セージとの会話が聞こえているはずもないのに、ピカチュウが飛び出したそうにそわそわとしている気持ちが伝わる。
「行きたいところは……ある。シバさんと約束した」
 レッドはまだ手のひらに残る体温を握りしめた。厳しい自然の中に身を置いて、ポケモンだけでなく自分自身も鍛え上げれば彼のように大切なものを自分の手で守れるようになるだろうかと考える。
「おれもトレーナーを辞めたわけやない。いずれまたお前と戦いたいと思う日が来るかもしれん」
「うん……それまで待ってる」
 その言葉はするりとレッドの口から出た。旅に出てからライバルに打ち勝った後も手放せなかった、今すぐにでも戦いたいとの焦がれる思いがゆっくりと鎮まる。再会の約束はレッドに新しい希望を与えていた。
 ポケモンの気配すらない塔の一角で、新旧のカントーの覇者はそうやって静かに眠るような表情で穏やかに言葉を交わしていた。

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