その日の遅くに友人がもたらしたものは、マサキの今後の生活に大きな影響を及ぼした。
「おお、セージやないか。久しぶりやなあ! さっきテレビでチャンピオンロードが封鎖されたて聞いたんやけど、どしたん……セージ!?」
 マサキは夜半に連絡もなく突然現れたセージを朗らかな顔で家に迎え入れ、明るい部屋の下でぎょっと飛び上がった。それは終わらないシステムメンテナンスで疲れた頭には刺激が強する光景だった。
 久しぶりに見た友人の唇の端は痛々しく腫れ上がり、破れた袖の下から覗く皮膚には黒く凝固した血がこびりついている。外の冷たい空気に混じって錆びた臭いがツンと鼻を刺した。
「えらいボロボロやないか、何があったんや!」
「何もない」
「はあ!?」
 わかりやすくそっぽを向くセージの腕を掴んでマサキは無理やりソファに座らせた。
「お前……そこ掴むなや……」
「やっぱりセージの血やないかい!」
 恐る恐る触れた髪からも凝血したかたまりがぽろぽろとこぼれ落ちる。ぐったりと背もたれに体を預けながら大したことないと強情に言い張るセージを無視し、マサキは「ラッキー!」と叫んだ。
「ラッキーどこや! 急患や、手当てしてやってやあ!」
「やかまし……」
 マサキの夜食を作っていたラッキーがあらあらまあまあとお玉を振り回しながらセージに駆け寄った。
 ラッキーに大人しく治療されるセージの周りをマサキが一番深刻な顔でうろついている。荒事が苦手でこれまで対人バトルを避けて通ってきたマサキにも、明らかに正規の対戦によって負わされた傷でないことは一目見てわかる。喧嘩に巻き込まれたか闇討ちされたか、とにかく尋常ではなかった。
 マサキの頭に夕方のニュースの字幕がちらりと過ぎった。第一報ということで詳細は伝えられていなかったが、チャンピオンロードの封鎖は即ちリーグ戦の中止である。嫌な予感がマサキの背中をぞくぞくと駆け巡った。
「なんや、リーグ戦で挑戦者をこてんぱんに負かして逆恨みでもされたんか?」
 場の緊張を紛らわせる冗談のつもりで口にして、実際にはあまり質の良い冗談には聞こえなくてマサキは冷や汗をかいた。
 しかしセージの次の言葉にマサキはうっかり気を失いかけた。
「チャンピオンは辞めた」
 は、と口を開けて、唾を飲み込んで、マサキはまた口をあんぐりと開けた。
「はあ!?」
「そこ痛いんやって……」
 マサキは本気かとセージの両肩に掴みかかり、ラッキーから咎める視線を受けても一歩も引く気になれなかった。セージの伏せられた目に顔を近づける。
セージがアホなこと言いよるからついな、堪忍な。セージもわいにしょうもないうそついたらあかんよ」
「うそやない」
「うそや」
 間髪入れないマサキの否定にセージが少したじろいだ。痛みにしかめられた顔はいつもの無表情よりもなお感情が読み取り難かったが、マサキは伊達に彼の友人を長年やっていなかった。
 観念したようにセージが口を開いた。
「……ちょっとうそや」
「せやろ」
「ほんまは責任取ってこれから辞めるつもりや」
「はあ!?」
 セージのうめき声を聞いてマサキはようやく体を離し、その横にどさりと腰を下ろした。
「おもんないうそはやめや」
 ラッキーがセージとマサキの前にそれぞれ卵を置いて優しく鳴いた。新しいエプロンにいそいそと着替えている様子から、これから夜食作りを再開してくれるのだろう。言わずともきっとセージの分も用意してくれる。
 マサキは今夜で二徹目だった。疲れていると自分でも自覚がある。
 手当ての終わったセージは全身包帯だらけで、マサキの腹は空腹よりも怒りでよじれそうだった。誰だか知らないがマサキの大切な幼なじみを傷つけて、今このときものうのうと生きている存在がいることに許しがたい思いが湧いていた。マサキは自分を温厚な性格だと思っていたが、今ならどんな報復行為でも取れる気がした。
「こんな酷い怪我はポケモンに指示せんとできんよな。そいつのポケモン預かりシステム停止させよか? いきなり使えんようになったら相手もびっくりするで」
「……なんやて」
 タマムシ大学在学中に起業して、そのときすでにチャンピオンとなっていた友人のコネを利用したのだから完全に自分の実力だけではない。それでも全国のポケモンセンターに短期間で導入されたシステムは今では社会のインフラの一端を担っていると自負している。
 今度ばかりはマサキも本気のつもりだったが、思いがけずセージの真剣な眼差しを受けてすぐに背中を丸くした。もともと温厚というより臆病な性格である。マサキは現実的な選択肢が目の前に現れると、途端に腹の据わりが悪くなった。ラッキーの置いていった卵にそろそろと手を伸ばした。
「そないなことできるんか」
「お、おん」
 犯罪やけど、とは心の中でつぶやいて、ふとマサキの顔が青ざめる。
 もしセージが悪ふざけで口にした辞任の言葉が真実であれば、その理由はいかほどのものだろうか。マサキはつい今し方までセージの大怪我とたわいない冗談を結びつけてはいなかったが、にわかに現実の話のように思えてきた。疲れた頭はことの次第を正常に判断できるほどの余力がない。
「な、何やらかしたんや……セージ……」
 言い難そうに口を引き結ぶ幼なじみを見てマサキは再び気を失いかけた。

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