がちゃん、と紫藤ヒバリの背中で甲高い音が鳴る。寺の石垣から勢いよく地面に飛び降りた拍子に、わずか一年ばかりのうちにすっかりゆるんだランドセルの錠前が悲鳴をあげていた。上掛けの掠れきった黒色のランドセルはもう長い間戦場をともにしたようにやつれた姿だが、半袖半パンから覗くヒバリの細い手足も垣根から伸びた枝葉に傷つけられて白い線がいくつも引かれていた。
 痺れた膝を屈伸させたままの体勢で、ヒバリは熱せられたコンクリートのひび割れからたくましく顔を出すタンポポの黄色い花びらを興味津々に眺めていた。口の中いっぱいに先ほどまでの甘い味が思い起こされる。ヒバリは寺を駆け抜ける前まで集団下校中の同級生たちとツツジの蜜を吸っていたのだが、あまりにも子どもたちがむしり取るのでその家の主人から箒で追い払われて皆とはぐれたところだった。きっと明日の朝礼では教室の後ろに立たされるのだろうが、そんな先のことをヒバリは気にも留めていない。
 この花はどんな味がするんだろう、とタンポポに鼻先を近づけたヒバリの横を自転車が邪魔だとばかりに錆びたベルを鳴らしながら横切って、その先で急ブレーキをかけた。
「おっと、ヒー坊じゃねえか」
 素足の上に引っかけられただけのサンダルが、学校の上級生にも羨ましがられる五色戦隊柄のズックの横に並ぶ。
 ヒバリは茎からちぎった花びらをあーんと口の中に含んだ。
「うまいか?」
「まっじい」
 おえっと吐き出すヒバリを見て、男が無精髭を生やした口もとを大きく広げてげらげらと笑った。
「坊主、今日も来るだろ?」
「えー、どうしよっかなあ、こう見えてオレもいそがしいしー」
 あまりにも遠慮なく笑われて膨れたまるい両頬を男の片手にやすやすと潰されて、ヒバリは余計に不機嫌になった。
「よしよし、俺の自転車に乗っけてやるから一緒に行こうぜ、な?」
「おっちゃん知らないの、あやしい人にはついて行ったらいけないんだよ」
「知らない仲じゃねえだろ」
 傍目からは今にも通報されそうな会話を交わしつつ、ヒバリは仕方ないなあと、大人向けの高いサドルによじ登った。靴裏がペダルに届かずぶらんと下がる。
「ジュースだけはやだよ」
「おうおう、俺が奢ることは前提か」
「ぜんてーだよ。おっきいいちごの入ったやつね、はいこれ決まり」
 手際よくおやつを強請って、「出発進行!」と叫ぶヒバリが自転車ごと押して連れ去られた先は、二人の行きつけの喫茶店だった。客からの注文を繰り返す声や食器の当たる音にまぎれて、ヒバリの小さな耳が衝立の奥のスペースから聞こえる馴染み深い響きを素早く拾い上げる。
 男に対する渋るポーズも忘れて、体の中からどんどん湧き起こる興奮にヒバリの顔が紅潮する。昨日も一昨日も、そのずっと前からもうほとんど毎日のようにこの店に通い詰めているが、いつまで経っても色褪せることのない気持ちがヒバリの頭から指先までを痺れるように駆け抜けた。
 早く打ちたい。早く新しい世界を作りたい。ヒバリはランドセルの肩ベルトをぎゅっとつかんだ。
「一局目は俺からな」
 男はヒバリではなく、彼らに気づいて次々と声をかける周囲の大人たちに向かって宣言した。
「なんだい、それだったらすぐ終わるね。次は私の相手をしてくれないかい」
 窓辺でうたた寝をしていた老齢の女が急に目を開けてにやっとヒバリに笑いかけた。
「ふん、あんたとヒー坊で勝負になるのかよ、ガキ相手に何子置いてもらう気だ? ウチに帰って詰碁集でも開いてな。字が小さくて読めないなら代わりに解説してやってもいいぜ」
「小僧も言うようになったじゃないか。それなら今度、誰ぞに発陽論を持って来させようか。どうだい、男に二言はないからね」
「おうおう、なんとか論でもなんでも解いてやらあ」
 子どもの前で大人気なく角突き合わせる二人を放って、ヒバリは衝立の奥の空いた席に座った。椅子の下でランドセルが足置き台代わりに潰れかけている。
 テーブルの上に広がる無限の宇宙を見下ろして、ヒバリはにっこりと笑いかけた。
「ただいま、囲碁の神さま」

 その日のヒバリは誰よりも先に教室を飛び出していた。数ヶ月前からずっと楽しみにしていた約束を放課後に控えていたから、体育の授業で雲梯の競争をしたこと以外、ヒバリの中に今日の学校での思い出はかけらも残っていなかった。教師の念仏はなおさらすべて耳から素通りしていた。
 からんからん、と定休日の札のぶら下がる喫茶店の扉が涼やかな音を立てながら外から押し開けられた。ドアベルが鳴り止めば店内は暗く静まり返り、いつも窓辺に座っているオーナーの姿も見当たらないが、衝立の奥のそこだけ明かりのついたあたりから、木に打ち付けられる石の音が黄昏どきを告げる晩鐘のように更なる深い静寂を周囲にもたらしていた。
「ごめん、じいちゃん! 先生がだらだらしゃべって遅くなっちゃった」
 ヒバリが靴裏を滑らすように店の一番奥へ駆け込むと、まっすぐに背筋を伸ばした男が盤面から顔を上げてヒバリを見た。眉間に皺を寄せ、ふっと息をつく。
「あ、笑うなよ。今日のはオレのせいじゃないんだぜ」
「まずは手を洗って来なさい」
「信じてないなあ、いいけどさ」
 ヒバリはランドセルを床に投げ捨て、カウンターの横にあるトイレまで走っていった。その背の消えかかる前に男が着物の裾を払って床に放り出された教科書を片付けていたが、それを見た者はどこにもいなかった。
「あれ、これって前に会ったときのやつじゃん。ここの割り打ちは面白かったね」
 本当に手を洗ったのか訝しむほどの速さで戻ったヒバリが濡れた手をスボンの後ろで拭ってから、ちょん、と白石をつついた。それから男に断りもなく続きの石を並べ始め、終盤に近づくほどに高まる興奮を抑えきれず、飛び跳ねながら最後の一手を会心のままに打ち込んだ。ただし大人のように指で挟み持つことはできないから、親指と人差し指で碁石をつまんでいるところがいかにも格好つかない。
「はい、できあがり! これでじいちゃんの一目半勝ちね」
 男が腕を組み、無言の下で思索に沈み出した。ヒバリはお互いの間に流れる沈黙には慣れたもので、いくつか手を戻すと違う模様を盤面に描き出し、それをまた崩しては新しく並べ始めるというようなことを何度か繰り返した。
「どれが一番楽しいかなあ。じいちゃんの手はどれもきれいだからなあ」
 碁笥の中で指を遊ばせながらぼんやりと言ったヒバリの言葉に、男が鋭く反応した。白いものの混じり始めた髪の下の眼光がヒバリを貫く。
「しかし、結果は二目半で私の負けだ」
「負けたっていいじゃん」
 男の低い声にヒバリはあっけらかんと応えた。秒針の動く音だけが響く店内に、年の離れた二人の声がじんと交じり合った。
 男は首を横に振り、しかしそれ以上はこの不毛な会話を進めなかった。組んだ腕を解いて盤上の碁石を全て片付けると、片方の碁笥を引き寄せた。互先で打つと決めてからもうどれほど経つか、今回の先番は男の方だった。
「では始めようか」
「やった!」
 ヒバリは今日一番の笑顔を弾けさせて、男の眼前につむじを差し出した。
「よろしくお願いしまーす」
 その小さな頭をじっと見つめて、男もまたこうべを垂れた。

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