地方から上がって一年はそのことばかりがからかわれていた。手遊び歌も怪談も些細な違いが子どもたちの耳目を引き、何より話す言葉の調子がぜんぜん違っていた。身悶えしながら周囲に溶け込むうちにその壁はついに取り壊されていったが、人間に生まれつき備わる社交の限界というものを幼いながらすでに感じ始めていた。
 学校や友だちとの悩みごとを打ち明けるには紫藤家に余裕が足りなかった。母親はすでに亡く、父親は常に多忙を極めている。
 だからヒバリは囲碁を打っていたのだと思う。目が開くより先に十九路を頭の中に思い浮かべ、走り出すより先に路傍の小石を地面に並べていた。
 囲碁はヒバリにとって世俗と交わる手段であり、生きていくための呼吸に等しかった。小学校で習う勉強にしろ友だちと遊ぶサッカーにしろ、それらはむしろ人生の余興に過ぎなかった。囲碁は生きていく上での第一義としてすでにしっかりと体の芯に据えられており、それ故に本分から外れてしまっている。
 だから、今さらなぜ囲碁を選び直す必要があるのか得心がいかなかった。
「塔矢くん」
 ヒバリは臀部の下に揃えた両足をもぞりと動かした。対面するアキラは先ほどから恐ろしい顔で盤上を睨みつけている。下からこっそりと窺い見て、完全に思考の海に溺れているのを確認するとそろりと足を崩そうとして、しかし秘密の任務は果たせなかった。
 あっ、という声が線のようになだらかにヒバリの口から漏れて、背中から先に畳へ倒れ込んだ。い草の編み目が火花が散るほど肘を擦る。痛い、と認識する前に天井が涙で滲んだ。
「何をしているんだ君は」
 呆気に取られたアキラがヒバリを助け起こすでもなく腰を落ち着けたまま真顔でいる。
「棋士になるなら正座くらい慣れておいた方がいい」
「もうなってるよ」
 反抗的な気分で起き上がるとヒバリは座布団の横に胡座をかいた。まだ足裏の感覚もなかったから、見栄を張るにしても上出来だった。好奇心で太ももをちょんと突いて、痺れが痒みに変わる快感に気が逸れる。
「そうじゃない」
 アキラが再び碁盤の上に目を落とし、「そうじゃないんだ」とまたつぶやいた。その声はヒバリの方を向いていない。自分の体で遊ぶのにも飽きてきて、ヒバリは後ろに手をついてそっぽを向いた。
 対局はすでに投了している。
 塔矢アキラと出会ってからヒバリはずっと何かを請われ、何かを求められ、そして体のうちにあるものを残さずずっと差し出してもまだ足りないとせがまれている。これ以上は自分ひとりの力では如何ともしがたく、ヒバリはすっかり困っていた。
「塔矢くんとの碁は楽しくないよ」
 その言葉を発するだけの勇気がヒバリにはまだ持てなくて、だから胸のうちにそっと仕舞い込んだ。

 軽く肘をつつかれて、伊角は和谷が口の形だけで伝える先を見た。二人とも今日は手合日ではなかったが、若手の研究会と称して日本棋院の周辺を屯ろしていた。ペットボトルを片手に道端で談笑していても不審に思われないところが若いなりの強みである。
 その棋院の植え込みの石垣にランドセルを膝に抱えた子どもが座っている。ぶらりと垂れ下がった生足に血が滲んでいた。
 あるいは伊角ひとりであれば見なかった振りをしていたかもしれない。だが世話焼きの和谷に触発されてか伊角は子どもに優しく声をかけていた。当の和谷とて品行方正な伊角の前で襟を正していたからだとは知らなかった。
「お父さんを待っているのかい」
 子どもはびっくりした顔で腰を低く屈める伊角を見た。遠目からでは年齢の区別もつかなかったが、表情の抜け落ちた顔は酷く幼いように思えた。
「待ってないよ」
 子どもは物怖じしない態度を取りつつも伊角と和谷に交互に視線を送り、ランドセルを両腕でしっかりと抱え込んだ。
「お前院生? 棋院に用事でもあるんだったら一緒に行ってやろうか」
 ぶんぶんと首を横に振られて、どうしたものかと二人は顔を見合わせた。声をかけた以上は怪我をした子どもを放っておくのも気が咎める。
「伊角さんハンカチ持ってない? トイレで濡らして来るよ」
 和谷は血で汚れるからと気まずそうだが、むしろここで彼のポケットからハンカチが取り出される方が驚いただろう。伊角は鞄に折よくガーゼタオルがあったのを和谷に預けると、子どもが警戒する前にその隣に浅く腰かけた。荒削りの石肌が汗ばんだ足にひやりと貼りついた。
「俺たちはここで人を待っているんだ。君もそう?」
「……うん」
 子どもはちらっと伊角を見上げた。
「お兄ちゃんも囲碁やるの?」
「そうだよ。俺が伊角で、さっき一緒にいた奴が和谷。二人ともプロの棋士をしているんだ。君の名前は?」
「ヒバリだよ。もうすぐ三年生」
 つまり小学校二年生ということになる。上限の年齢が定まっている院生であってもあまりないほどに幼い。日頃であれば来館客が連れた子どもの可能性が高かったが、世の中はすでに盆休みに突入している。会館の玄関は彼らにとって都合よく開いていたが、催し物の予定はおそらく入ってないだろう。棋院内部の関係者だろうかと伊角は内心で首を捻った。
「伊角くん」
 随分と年齢の離れた子どもに肩肘張った呼び方をされて、伊角はいっときは苦笑を堪えたものの、続く子どもらしい素朴な問いかけに思わず微笑んでいた。
「伊角くんは囲碁で負けたら悔しい?」
 ヒバリが院生であってもそうでなくとも、雑多なサブカルのあふれる昨今において、敢えて囲碁に興味を示してくれたこと自体が同じ碁を打つ者として好ましくあった。伊角は少しだけ心を開いた子どもの様子に快く応えた。
「もちろん悔しいよ。囲碁は勝ち負けのはっきりしている世界だからね」
「負けて悔しく思わなかったらヘンかな」
「はは、友だちに何か言われたのかい?」
「言われてないけど……」
「言われた気がした?」
 そのまま押し黙ってこっくりと頷いた小さな頭を伊角はしばし見下ろした。安易に同情を示してヒバリの気を向かせるか真面目に悩み、やはり本心を口にした。
「そうだね、俺はもしかしたら君の気持ちが少しわかるかもしれない」
「どうして? 伊角くんは負けても悔しいのに?」
「そうはっきり聞かれると答えづらいものがあるけど」
 伊角は立錐の地もない東京の空を見上げ、自分の中にある感情にゆったりと耳を傾けた。どのように言葉をつなげればまだ分別のつかない子どもにも伝わるだろうかと考えて、これはプロ棋士として一つの修練の場であるようにも思えた。
「君よりもう少し大人だった頃の俺は負けて悔しいと素直に口にはできなかったかな。負けて悔しくなかったわけではないよ、ただ、勝った相手の強さを認められても、負けた自分自身の弱さを認めることができなかったから。それで何度も終着を見落としたことがある」
「自分が碁盤の中のどこにいるかわからなくなったってこと? 勝てる相手にも?」
 ヒバリの口から疑問の声がぽろぽろこぼれ落ちるのを伊角は丁寧に拾い上げた。院生であった頃の惑う自分の声が今さらこだまのように遠くから返っているような心地がした。
「碁盤の中にか。うん、そうだね、俺は長い時間をかけていつの間にか碁盤の中で迷子になっていた。そのときは真っ直ぐ前に進んでいると信じていたのに、実は同じところをぐるぐる回っていたんだ。それに気づいたときのショックは大きかったな」
「でもわかったんだ」
「周りからたくさんアドバイスをもらったからね」
「どうしたら迷子の友だちをちゃんと勝ち筋に連れていけるかな?」
 伊角は視線を地上に戻し、重くそびえ立つビル群の高い影に囲まれて目がかすんだ。ゆっくりと瞬いた伊角の目が細い顎を上げて無防備に差し出される顔の上をいったんは通り過ぎ、吸い付くように引き戻された。
 頭の隅で和谷はまだ戻らないのだろうかとちらりと不安がよぎったが、次の瞬きのうちには些細な疑問も押し流されて、伊角の中に何も残らなかった。
 ヒバリが答えを探して伊角を見つめている。碁盤越しにふと対局者と目が合ったときの、高段者を相手取るような悪寒がぞくりと伊角の背筋に走った。
 駅へ向かう先の通りから響くクラクションが耳をつんざいた。
「勝ち筋が見えるなら負け筋も見えるよね? 伊角くんはその負け筋の先の景色が気にならない?」
 どうして囲碁は負けたらダメなんだろう、とつぶやくヒバリに、伊角は自分が根本的に履き違えていたことを知った。
「君は……友だちにわざと負けたのか?」
「うん」
 返事はためらいがなく、ぞっとするほど無邪気だった。膝に抱えたランドセルの黒さが建物の影の中で浮かんでいる。
 そのとき棋院の玄関口が騒がしくなり、伊角は目を逸らしてふっと詰めていた息を吐き出した。数人のスーツ姿の職員に紛れて上物の着物が見え隠れして、伊角は遠く置き去りにされていた今日の目的を思い出し、それから和谷の戻りが遅い事情も飲み込めた。
 伊角が入段した年にはすでに現役を退いていて、それが対局経験のない理由とならないほどに今もって雲の上の存在である。だから滅多に日本に戻らない塔矢行洋が東京本院を訪れていると小耳に挟んだのは偶然で、軽い情動に足を動かさせたのは軽率だったとも思える。と言っても図々しく挨拶をしたいと思ったわけではない。ちょっと姿を拝見できれば僥倖、仮に何かの間違いで対局の約束を取り付けられたとしたら、それは我が囲碁人生に悔いなしとでも言い切れるほどだった。もはやプロとアマチュアの立場が逆転していたが、長い院生時代からいずれその高みにと望んでいた伊角にとって目前でかき消えた行洋は半ば神格化した存在となっていて、何年経とうとその認識が変わることはなかった。行洋自身が更なる高みへと昇り続けていたからだ。
 その神とも目す人物が今、伊角の前に立っている。
 伊角が立ち上がるのとほとんど同時にヒバリが石垣から飛び降りてパッと駆け出した。背の高い大人たちの間を小さな体がすり抜け、誰かの驚いた手が宙を泳いだ。
「じいちゃん!」
「え?」
 えっ、と疑問符を投げかけたのは伊角だけではない。その場の誰もが塔矢行洋の腰に抱きつく子どもを凝然と見つめ、続く言葉が出なかった。得体の知れない沈黙が各々の汗の滲む額の上に灯った。幼く、しかし塔矢アキラの子どもと言うには大きすぎるヒバリを苦もなく受け止める行洋にも呆然とした眼差しが送られた。
 行洋の顔がすっと険しくなる。
「なぜここに?」
「電車に乗った」
「そうではなく……怪我をしているのか」
 行洋がヒバリの肩に手を乗せ、自分の聞き間違いか考え違いであってほしいと青ざめている職員のひとりに声をかけた。
「すまないがこの子の治療をしてやってくれないだろうか」
「は……はい。ええ、はい」
 動じない行洋の態度にやはり聞き間違いに違いないと頷く職員の前で「じいちゃん」とヒバリがもう一度呼びかけた。
「もう帰りたい」
 その後の会話は伊角のいる場所からはもう聞き取れなかった。呆然と立ちすくむ伊角のそばにようやく現れた和谷が興奮した面持ちで近寄る。
「伊角さん見た? 本物の塔矢先生は貫禄あるよなあ。さっきの子どもと知り合いみたいだったし、俺たちのこといい感じに取り次いでもらえないかな?」
「いや……」
 伊角はなんとも言えない顔で和谷を見た。幸いにしてと言うべきか、先ほどのやりとりは聞こえなかったらしい。
「今回はやめておこう」
「えー、そう? じゃあ俺だけちょっと行ってこようかな」
 濡れたままのガーゼタオルを広げ、まだ借りたままでもいいかと和谷が無邪気に聞いた。そのさまがあの子どもと少しも重ならなくて、伊角は自らへのやるせなさを覚えた。和谷は初めから塔矢行洋との対局を望んでいた。
「ヒバリくんと言うらしい」
「お、さすが伊角さん」
 和谷は聞いたばかりの名前を口の中で転がして、ふと遠くを見た。それは騒がしさの余韻の残る玄関口ではなく、ここではないはるか遠くを向いていた。
「なんかあいつ……」
 その先を伊角は瞬間的に読んでいた。二人の間で明瞭に共有されないまでも、見知らぬ子どもを気にかけた最初の理由をお互いが暗黙のうちに了解していた。
 彼らには忘れられない一夏の経験がある。恐ろしいほどの才気を臆面もなく日のもとに晒し、そのままあっさりと自分たちを追い抜いて行った一陣の風を覚えている。
 なんでもないと首を振る和谷に伊角ははっきりと答えた。
「似てないよ。彼とは全く、似ていない」
 最後に見た家を飛び出す背中をまぶたの裏に思い起こして、伊角は奥歯を固く噛み締めた。そうしなければ何か余計な感情があふれ出しそうだった。

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