ぱちん、と美しい木目の通った天面を艶やかな石が強く弾く。ガラス戸の外は朝からうだるような暑さに見舞われていたが、エアコンの稼働する室内は肌に涼しく、碁石の打つ音もよく響いた。
 アキラがまだ学校に通っていた頃は夏でも自然の風を通していたように思う。門下生たちが日がな盛んに通い詰め、団扇を片手に遊ばせながら目の前の対局に没頭していた。今の塔矢家では稀な光景だが、畳の方々に座って検討を重ねる棋士たちの熱心な姿にいずれは自分もという気概が当時のアキラには強かった。探せば今でも夏の影のようにくっきりと部屋の隅に染み付いていると、目ではなく背中で感じることがある。
 若かったのだろう、あの頃は。今でも十分に若いと言われ、その戦績に日本の未来を無造作に期待されるが、いまだ気を抜けば遠ざかる父の背中を必死に追うことで自ずと研鑽の積まれる昼夜は変わっていない。畳の張り替えだけが年々遅れるばかりで、それが却って時勢の変化を気まぐれに伝えていた。
「棋風が少し変わったね」
 真剣勝負といかないまでも、行洋が朝の対局の合間に口を開くのは珍しかった。
「そうでしょうか」
「自覚がないか」
「自分ではわかりません」
 まるで拗ねた子どものようなことを言って、アキラは黙り込んだ。心の不調は容易く碁に現れる。行洋の指摘がいっときに過ぎるものかどうか、アキラの手に迷いが生じた。
「彼の影響だろう」
 行洋は対局相手の不用意な緩手を容赦なく突いて、もしや盤外戦を仕掛けられているのだろうかとアキラを訝しませた。
「そうであれば良い影響ではありえません」
「なぜ?」
「あの子どもは真面目に囲碁と向き合っていません。お父さんとあれほどの相碁を作っておきながら、彼の棋道はいつも遊びに走っている。どこに学ぶべきところがあるのでしょうか」
「学びたいと思っているのか」
 行洋がかすかに笑い、ついにアキラは碁石を持つ手を止めた。父に張り合いたいという気持ちを軽くいなされてしまったように思えたが、果たして張り合いたいとも思っていたのか、アキラは一瞬のうちに感情の不明に陥った。
 同じ屋根の下で紫藤ヒバリはまだ眠りについているか、あるいは起き抜けの怠惰な気持ちを湿った寝具の中にでも持て余していることだろう。庭で送り火を焚く前に彼は自分のあるべき家へと帰路につく。そこが地続きの場所であることに今さら疑念を挟む余地はないが、それでもふと、アキラは自分の目の前に縛り付けてずっと囲碁を打たせたいという理屈のつかない欲求に塗れることがある。彼の中に眠る悍馬のような一面を引き出したいと思ってしまう。
「彼の棋風は進藤くんに似ている」
 久しく離れていた名前の響きにアキラは顔を強ばらせた。
「そうでしょうか」
「saiとも似ている」
「……お父さんは、彼と打ってsaiの存在を感じたことが?」
「もちろんある。それからアキラ、対局中にお前を近くに感じたこともある」
 思いがけないことを言われて、アキラは対座する父の顔を見た。行洋は着物の両袖に腕を通して盤上を見下ろしている。
「あるいは若い頃の私や、さらに遠い時代の失われた風を連れてくることもある。よく研究しているのだろうね」
「彼が才能だけで打っているのではないと」
 行洋が目を上げ、アキラは愚かなことを口走った自分を恥じた。
「むろん彼の才能には目を見張るものがある。しかしそれだけであのような打ち回しは長く続かない」
 行洋は初心者を相手にするような道理を説いて、アキラの後ろに視線を走らせた。軽やかな足音が廊下を渡ってキッチンに入る。朝食の支度をする明子との壁を隔てた不明瞭な会話が彼らの耳を撫でた。
「あの子から囲碁を取り上げるのはやめなさい」
 まるでアキラの心と正反対のことを言う。アキラは首を振った。
「むしろ一刻も早くプロの道を志してほしいと願っています。彼は囲碁の勝負事を早く理解すべきです」
「子どもには残酷な世界だろう」
「それは、お父さんがそれを言いますか。僕はあなたの名に恥じない棋士となるべく、もっと幼い頃から精進して参りました。彼はお父さんの前でも臆することなく打つんでしょう。それでは不足ですか」
「不足ではないが、過ぎたるものが災いを招くこともある」
「棋力が年齢の割りに突出し過ぎていると懸念されていることはわかります。しかしいずれは時が解決することです。むしろ歳経て成長するならば迎え撃つ棋士として本望でしょう」
 アキラは気づけば身を乗り出すようにして自らの求める先を伝えていたが、行洋は少しもたじろぐところなくアキラの熱意を受け流した。
「そうではない。確かにプロを目指す中で揉まれれば、あの子の碁はより強く研ぎ澄まされるだろう」
 掛け値ない賞賛を言葉に含みつつも行洋の顔は一向に晴れず、むしろより一層と暗い考えの淵に沈み込んだようにも見えて、アキラは途方に暮れて中断された盤面に目を落とした。
 アキラは行洋ほどに件の子どもと打ち合っていない。それでも指で数えられるばかりの間に彼に対して引き込まれるほどの充足を抱いたのは確かだった。挑戦者手合での緊張を背後に孕んだ鍔迫り合いとも、隅々まで納得のいく碁を打った日の夜更けまで続く深い味わいとも違う、奇妙に腹のうちに納まりのよく、しかしいつまでも皮膜のどちらかに飢えを抱えるような充足があった。
 これまで疑念さえ持たなかったが、行洋はアキラの存在を遠ざけていたようにも思え始めた。
「囲碁は彼にとって生きるよすがのように見える。あれこれと子どもめいたことを口にするが、それが全て本音とは思えない。確かに早く世に出て多くの者と対局すれば新たな境地も覚えよう。しかし、もし彼自身が過ぎたる病いを知ることがあれば、囲碁への構えが変わってしまえば」
 庇の作る影の形がわずかに変わり、朝の静けさに満たされた葉の裏から一斉に蝉時雨が降り出した。行洋は日の揺らめく夏の庭へと目を向けて、滅多にない心のうちをこぼした。
「私はそれが何よりも恐ろしい」
 アキラは父の見据える先を追うことができず、黙って膝の上で拳を握りしめた。

聞きなす迦陵頻伽のさえずり・了  1 / 2 / 3 / 4 / 5