ヒバリは顔を熱気の中に差し込んで、その出来上がりに大いに満足していた。
「気をつけてね、しっかり両手で持って……。うん、いい感じ」
 アーモンドの香ばしい匂いを部屋いっぱいにさせながら、オーブンから取り出されたトレーが調理台に慎重な手つきで置かれた。
「明子ちゃんどう? 美味しそう?」
「一枚つまんでみましょうか。出来立てを食べられるのが作る側の特権ですからね」
 キッチンに並んで立つヒバリよりはるかに楽しそうな顔で明子がクッキングシートに並ぶ不揃いなクッキーを指差した。ヒバリは真剣な面差しで端から順番にじっくりと眺め、一番綺麗な焼き色のものを皿に取り分けた。
「これは食べちゃだめだよ」
「あら、もしかして行洋さんに?」
「うん。出来立ての方がおいしいんでしょ?」
 今にも居室へ突撃しそうなヒバリの様子に明子はうふふと口もとを手で押さえた。
「アキラさんには? どれを食べさせてあげるの?」
「えー、塔矢くん?」
 思ってもみなかったことを聞かれたみたいにヒバリは目をばちくりとさせて、明らかに雑な手つきで一枚を選び取った。持ち上げたときに少し欠けたような気もするが、ヒバリは大して気にしなかった。行洋がダイニングに現れたからだ。
「じいちゃん!」
「何か良い匂いがするね」
 湯のみの乗った塗盆をカウンターに置きながら寛いだ顔で行洋が言った。すっかり自分もうまいものにありつけると信じきっている人間のする態度に、ぴくりと明子の眉が反応する。
「まったく、男の方はすぐこういうことに気づくんですから」
 呆れる明子の横でヒバリが期待に満ちた顔つきでクッキーの鎮座する皿を行洋に差し出した。身長差で少し背伸びしている。
「どう? すごい?」
「ああ、上手だね。もらってもいいのかな」
「はやく、はやく食べてみて」
 主人の合図を待つ犬のような忙しなさでヒバリは行洋の咀嚼する口もとを見つめた。
「ふむ、もう少し甘い方が私には丁度良いが」
 言いさして、行洋は明子からの視線を感じとるとちょっと怯んだ。
「よく焼けているね」
 あなた、と妻から再び及第点をもらえなかった行洋を後ろに、ヒバリはそこでようやく初めて、自分の手で作られたクッキーを口の中に放り込んでみた。前歯がアーモンドを割り、ほろほろと崩れるような食感が口の中に広がった。材料の用意も分量の仕分けも全て明子があらかじめ済ませていたが、ヒバリにとってこの体験は心を大いに奮い立たせるのに十分なものだった。
「俺、お菓子屋さんになる!」
 囲碁一家のキッチンの中央でヒバリは意気揚々と拳を突き上げて宣言した。明子はやはり上機嫌だ。
 傍らで、行洋が目を細めてわずかに立ち尽くしていた。その小さな指が碁石をつまむさまを乾いたまぶたの裏に映し、しかし別のことを口にした。
「サッカー選手になる夢は諦めたのかね」
「うーん、サッカーはさあ、このあいだ一組の女子にリフティングで負けちゃったし」
「あら、運動神経のいいヒバリさんに勝つなんてよっぽどすごい子なのね」
 リフティングが何を指すかわからないまでも、それだけで、と眉をひそめる夫を尻目に、すでに一児を立派に育て上げたことのある明子が落ち込むヒバリをさらりと擁護した。
「うん、今度の運動会でもそいつがアンカーやるんだぜ。リレーのアンカーって、クラスで一番速くないと選ばれないんだ」
「では、次はそのリレーで勝ってみなさい。一度の負けで諦める必要はない。何事もここまでが限界だと心が根をあげるまでは努力してみるべきだろう」
 明子ほどには子どもの情操教育に不慣れな根っからの碁打ちは自らの弟子に諭すようにして言ってから、妻の不興を気にも留めず、ついでのように心の隅に落ちた染みについて尋ねていた。
「君はサッカーで負けると悔しいのかね」
「あったり前じゃん!」
 打てば響く鐘のような返答だった。自分がたった今なんと答えたのかも理解していなような無邪気さで残りのクッキーを皿に並べるヒバリの姿に、行洋は物憂い眼差しを向けていた。
 そこには、図らずも息子と同じ色味が差してあった。

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