川を渡る風に乗って伸びやかな音色が叢生する葦の葉を揺らしている。誰もが一度ならずとも聞いたことのある旋律には、家路を急ぐ足を少しだけゆるめさせ、暑気に汗ばむ体をいっときの間忘れさせる古い彼方からの郷愁を帯びていた。まるで息継ぎに合わせるかのように散歩途上の犬がワンと一鳴きした。
彼らの視線の先を追い、複雑な顔で河原を見下ろす者がいる。艶やかな黒い髪が蒸した風に膨らんで肩口に流れ落ちた。
「お父さん」
勾配を降った塔矢アキラが、老練な勝負師の顔を半分だけこちらに傾けて座る父に声をかけた。背もたれからベンチを覗けば、碁盤の上に季節外れの景色が広がっている。隣に並べ置かれたランドセルが日の光を集めて重鈍にうずくまり、荷主だけが軽やかに解き放たれていた。
アキラはわずかに唇を噛んだ。願望と怖気の入り混じってとぐろを巻く濃厚な期待が小さく萎んでいく。
「一色碁ですか」
人並み以上に囲碁を嗜むアキラでもさすがにここから形勢を読み取ることは不可能だったが、定石の上から先手とも後手ともつかない地模様をお互いに食い潰し合う攻撃的な局面がおぼろに浮かび上がっていた。
「もう時間かね」
顔を上げた父の目のうちにつかみ損なった名残りを惜しむ色を見て、アキラは何も言えなかった。この世にたった二人しか知る者のない盤面が一方の手によりたわいなく崩される。両者の対局がこれまでいく度となく繰り広げられ、これからいく度となく続けられていくことを予期させるだけのあっけなさを含んでいる。漠然とした喪失感を抱えたのはこの場にアキラひとりだけなのだろう。
その間にも豊かな音色はいつまでも暮れない西の空に吹き渡っている。
「この曲……」
喉もとまで曲名が出かかって、何の音も舌に乗らないもどかしさにアキラは眉をしかめた。
「何というものでしたか。おそらく学校の課題曲なのでしょうが」
「そういえば朝も同じものを吹いていたか」
今さら思い至ったように頷く姿にアキラは答えを求めることを諦めた。もとより囲碁一筋、枯淡の趣きと言うには聞こえが良過ぎるほどである。同じ曲だと判じれたことに驚くべきか、アキラは当の子どもの絡むときに際立つ父の韜晦を歯痒く思った。
曲調がゆるやかに終わりへと駆け出し、最後の一音の余韻を断ち切るように今までアキラに背中を向けていた小さな体が急にくるりと回った。リコーダーの口に長く息を吹き込んでいたせいかその顔が上気している。
丸い瞳がアキラを見つけて大きく開かれた。それがどこか覚えのある気がして、アキラは動揺を鎮めるのに人知れず苦労した。次に続く言葉は反射的に想像したものではないのだと、短い間ながらにも骨身に染みてわかっていた。
「塔矢くん!」
声変わりの兆しもまだない甲高い声が、親もとの躾か教師の真似ごとか、いやに丁寧にアキラを呼ばわる。
「……もう、暗くなるから帰ろうか」
それでもこの少年に面影を求めてしまうのはひとえにアキラの未熟さによるものだろう。まるで忘れ物を取りに戻ったような気楽さで迎え火の揺らめきから現れた紫藤ヒバリを、アキラは穏やかならざる眼差しで見つめた。
紫藤ヒバリが塔矢邸の門を潜ったのはまだまぶたの奥にもくっきりと影の残る昨日の夕暮れのことだった。一年を通じてお盆のこの時期にしか家に腰を落ち着けられない行洋が、一家水入らずで過ごすわずかな間にひとりの子どもを預かりたいと言ってきたのは海を隔てた先からであった。常にそうであるように、このことをアキラは母である明子の口から決定事項として聞かされた。
意外な思いはあったが、碁打ちの世界を生きていく中で殊更に珍しい話でもなかった。内弟子をとる棋士が少なくなった昨今でも、学校の長期休暇に合わせて家に住み込みの塾を開いていると話す高段者を知っているし、行洋もかつてはそれとなく打診されたことのある身だと、聞くともなしに聞かされる父に関する数ある噂のひとつとして耳にしたことがある。短い間とはいえ他家の子どもを住まわせる苦労はあるだろうが、幸い我が家は客間が空いていて、何より明子が乗り気になっていた。
アキラにとっては明子の様子こそ意外な心地がした。突然にプロ棋士を引退したかと思えば以前よりも一層精力的に全国各地、果ては海外まで飛び回る夫に一歩下がって付き添う明子の姿は献身すぎるきらいがあるほどで、内助の功を褒める声には息子であるアキラ自身にも当惑さえあった。
話を聞いたときには数少ない羽休めの時間すら父に振り回される母を不憫に感じたが、しかし、行洋に手を引かれて碁盤の前に正座したヒバリを見た途端、アキラは夫婦仲の機微などという面倒ごとは遠くへ放り投げていた。
ふっくらとした指が石を持つそのあどけなさ。
いまだに各界から宗匠と慕われる塔矢行洋を前にして容赦ない一手を幼い手つきで打ち込む紫藤ヒバリの姿に、背筋の凍る思いがした訳が何であるかはあまりにも明白だった。周囲を慮ってか家族に弟子取り話を口外さぜず、日頃は出入りの激しい来客の引くこの時期を行洋が敢えて選んだことそのものが恐ろしい予感をアキラに与えてしまっていた。
このとき、進藤ヒカルが失踪してからすでに七年の月日が経とうとしていた。
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