始まりは一通の手紙だった。

 東京某所にある日本棋院会館の事務室に届けられた個人宛の薄い封書は、通常の処理手続きに従って職員の手により中を検められ、直ちに緊急用ボックスに仕分けられた。とはいえ責任者の判が捺されたその手紙が名宛人の手元に届いたのは、手合いのある翌日の夕方にまで自然と引き伸ばされていた。
 春先の涼しい季節で、まだ厚手の上着を手放せない寒さが続いていた。職員は朝のうちに事務室の前を横切る当人へ帰りがけに寄るよう声をかけはしていたが、当然のようにすっかり忘れ去られ、上の空で歩く彼を捕まえられたのは人通りの少ない通用口を出た先でのことだった。これでもまだ運が良いのだろう。一般人の職員には理解し難いプロ棋士のよくある習性だが、彼らは囲碁の世界に没頭するあまり平気で寝食を忘れ、ときには人間社会の存在すら忘れてしまうことがある。それでも手紙を手合いの後に回したのは人としての配慮によるもので、こちらの気遣いも知らないで、と職員は心の中で些細な苛立ちを発散させた。常識のすり合わせに疲れていては、この業界で長くやっていけない。
「進藤先生!」
 盤外の声はもちろん耳の裏で跳ね返されるので、職員は腕を掴んで引き留めた。まるで音楽をイヤフォンで楽しんでいる今どきの若者のようにびっくりした顔で進藤ヒカルが振り向いた。
「うわっ、何すんだよ!」
 見た目も今どきだが、話し方も今どきだ。今どき過ぎて頭が痛い。しかしありがたいことに教育係役は自分の仕事ではないので、職員は差し当たり昨日からの懸念であった手紙をヒカルに届けて自らの巣へと戻って行った。

 きちんと目を通してくれ、と諸々の前科のあるヒカルは何度も念を押されながらに渡された開封済みの封書の差出人をちらっと眺め、すぐにズボンのポケットに冷えた手ごと突っ込んだ。その拍子にちょっと嫌な音が聞こえたような気もするが気にしない。
 手紙の差出人の名前に覚えはないが、覚えがない方が面倒ごとの用件である場合が遥かに多い。頭の中の乱れた碁石に未練を残しつつ、ヒカルが冷たい風に肩を竦めながら家路を急ぐかファストフード店に立ち寄るかで半歩悩んでいるうちに、またしても誰かに腕を捕らえられた。しかもかなり強引に。
 嫌でもよく知る声はその後に響いた。
「進藤!」
 うっせー、とは口にしなかったが、ヒカルの顔を一目見て、腕を掴んだ塔矢アキラが眉を吊り上げた。もうその顔がうるさい。
 しばらく無言の攻防を繰り広げ、やがてアキラの方が寒空の下での無意味なやりとりからひとり立ち返った。
「つい今しがた大切な手紙を渡されただろう」ひきつるヒカルの顔に返事はいらないらしい。アキラは重ねて言った。「君が読んだかどうか確かめてほしいと頼まれた」
「うっそだろ、なんでお前が。というかよりにもよってなんでお前に」
「僕だって進んで立ち入りたくないが、君は事務の皆さんにお世話になっているという自覚がまるでないのか」
 お得意の説教くさい話が始まる予感にヒカルはうんざりとした。
 うっせー、と、今度は口に出していたらしい。瞬間湯沸かし器が喧しく鳴った。

 アキラはアキラで、あれこれ気を揉んだ職員から落ち着いた場所で手紙を読ませるようにと頼まれていたのだが、子どものように駄々をこねるヒカルの前で頭の先まで血が上っていた。
「だから、それが訃報を知らせるものだから早く読めと言っているんだ!」
 すっかり言い切った後になって、アキラは顔を青ざめさせた。もちろんヒカルに対してではない、塔矢アキラなら胸の内に留めてくれるだろういう信頼の上に打ち明けてくれた、職員に対して申し訳が立たなかったのだ。
 だが、肝心のヒカルはきょとんとしていた。
「訃報って、なに」
 アキラの腹に燻る火が再び熾り始めたことに気づいたのか、あるいはいつまでも吹きつけられる寒風に辟易したのか、ヒカルは黙ってくしゃくしゃに丸められた手紙をポケットからつまみ出した。口を開けても閉じてもアキラには度し難い人間だ。
 ヒカルは当て付けのように手紙をアキラに向けてかざすようにして開いた。二十歳を控えてようやく落ち着きというものを持ち始めてきたかに見えたが、このような仕種は呆れるほどに子どものようだった。まだ入ったばかりの院生の方が相応の振る舞い方というものを知っている。
 市販品の白い無地の紙からふわりと何かの香りがする。夕暮れの山裾に落ちた傍から集めたような薄い日に透けて、筆ペンで書かれたものなのだろう、うっすらとインク溜まりの見える文字からアキラは礼儀として顔を背け、しかし目線だけはヒカルの顔の上にあった。案の定、困惑が顔いっぱいに描かれている。読めない漢字か、意味のわからない文章か、その両方だろうなとアキラは内心で大きく頷いていた。事務員の懸念は正しい。
「何だこれ」
 困惑と、そこから沸いた苛立ちをはち切れんばかりに詰め込んだ声で、「何だこれ」とヒカルはもう一度繰り返した。
「良ければ」まだ顔を背けたままアキラは言った。「代わりに読んでみようか」
 親切心というよりは、それがアキラの頼まれた仕事だった。自宅ではなく棋院宛てに届いたというなれば、プロ棋士として関係した先であることに間違いはない。あまり大声で誇れたものでもないが、父親の客先を引き継ぐアキラには歳の割りに訃報の連絡に接する機会が同年代より多くあった。
 ヒカルは気味が悪いほど素直に「うん」と言った。

 アキラに手紙を渡して、ヒカルは空いた自分の両手に目を落とした。
 不思議だった。心の底から不思議でしかたがなかった。春先の冷たい風がヒカルの空っぽの手のひらを撫でていった。
 どうして今、自分は碁を打っていないのだろうか。ぼんやりと何もしない時間がいっときでもあるのなら、こんなにも碁を持てる指が両手いっぱいにあるのなら、どうして自分は今、碁盤に向かっていないのだろうか。
 まだ生きているのに。この手は碁石を掴めるのに。
「進藤」
 肩を引かれて、ヒカルはのろのろと顔を上げた。
「この字」と、ヒカルはアキラの手にある手紙の二文字を指差してかつてなく素直に尋ねた。「なんて意味」
 アキラが眉根を寄せてヒカルを見た。ヒカルはもう一度その字に触れようとして、そこでアキラの困惑の理由に気が付いた。
 質問の意図が掴めなかったわけではない。塔矢アキラにもわからない漢字があったのだ。あまりの珍しさにふつふつと何かがあふれ、ヒカルの口から漏れた笑いは音にならなかった。
「せいきょ、と読む。死ぬという意味だ」
 アキラはヒカルの示した字を拾って答えた。だが、本当はもっと別のことを聞きたかったはずだ。いつもは会話がどこに転ぼうと気にしないというように、自分の知りたいことばかり優先する我が儘なやつなのに。
 だから、ヒカルはその前に並ぶ字を指の腹で優しくなぞって、声のない疑問に答えてやった。
「こっちはな、さい、って読むんだ。意味は……、意味は、俺の大事な友達」ヒカルは悲しくなって笑った。悲しくとも笑えることを、悲しいのに笑えることを、新鮮な驚きで受け入れた。「どうしてこの葛城って野郎は、こんなにひどいことができるんだろうな。どうしてこんな、俺の友達が死んだなんてさあ」

 アキラは再びヒカルの肩を引き寄せ、棋院に向けて足を戻した。お互いの体が冬を思い出したように冷え切っていた。
 アキラは見る影もなく皺の入り混じった手紙に目を落とし、ふと気づいて今来た道を振り返った。まだそこにあって良かったと安堵するべきか、中身と同じ無残な姿の封筒が石畳の上に転がっていた。その横を乾いた風が通り抜け、アキラからゆっくりと遠ざかろうとする。無意識に体がそれを追うように一歩踏み出て、完全に隣への注意が欠落したその隙に、アキラの手からするりと手紙が抜き取られた。
 はっとしたときにはもう遅い。
 再びアキラが振り向いた先では、ヒカルが通用口の向こうへと消えかけていた。
「進藤!」
 これまで何度もその名を連呼してきたが、今ほどまでに虚ろに響いたのは初めてだった。アキラの口に苦い味が広がる。もう今さら間に合わない。
 アキラは封筒を拾って差出人の名前を確かめたが、何度記憶をさらっても思い当たるものがない。重い足取りで、もう背中も見えないヒカルの後を追って棋院に戻った。彼の行き先は見当が付いている。今は手もとにない手紙の内容も覚えていた。進藤ヒカル様、の文頭で始まる訃報の知らせは類似のものとさして代わり映えのしない文面だったが、ヒカルが嘲って言ったように、アキラを強烈に引き付ける文言がそこには含まれてあった。

 進藤ヒカル様。
 突然の書面でのご無礼をお許しください。去る歳寒の折りに兼ねてより病いの床にあった佐為が逝去いたしましたので、勝手ながら生前より親交のあった私、葛城よりお知らせしたく筆を取らせていただきました。

 末筆に、急な訃報でさぞ心乱れているだろうが、落ち着いたら連絡を寄越してもらえれば嬉しいと、電話番号を書き添えて手紙は締めくくられていた。
 気を遣われた側は落ち着く前に連絡を取るのだろう。照明の落ち始めた薄暗い廊下の片隅で、公衆電話の存在を示すほの明るいパネルだけが異様に浮いていた。その陰に、長い呼び出しの後から再び数字を押し始めるヒカルの後ろ姿があった。
「もうそれで何度目なんだ、進藤。所用があって出られなければ諦めるしかない」
 アキラの諌める声は当然のように無視された。
 進藤、と呼びかけて、アキラは口をつぐんだ。ヒカルが短く息を飲んだからだ。相手が通話口に出たのだろう。
 びくんとヒカルの背中がしなる。
「あんたが、あんたが俺に手紙をくれたのか? あんな……、知ったようなこと書いた手紙を!」
 ヒカルは名乗りもせずに、顔の見えない相手に向かって喚き出した。もはや何を口走っているのか自分でもわからないとでもいうように、何度も同じ言葉を繰り返しては怒りをぶつけ、そしてまた話を振り出しに戻しては相手を詰っている。アキラは時折り廊下を通り過ぎる遠くの人影や階上の足音に気を散らされながらも、ヒカルの狂乱した横顔を注意深く見守った。
「佐為が死んだって、なんだよ! そんなはずない、そんなはず……、佐為は、あいつは……」
 それきり、ヒカルはとうとう絶句してしまった。続く先はなんだろうかと、勢いに圧倒されながらもアキラが余計な考えを巡らしたそのとき、不思議と辺りから音が引いて、通話口の声が鮮明に聞こえた。
 落ち着いた男の声が思いがけなことを口にする。
「千年前に死んでいる、だろう?」
 ヒカルの手から受話器が滑り落ちた。

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