確かに、このところの進藤ヒカルの言動に訝しさを覚えていたが、それにしてもこの仕打ちはいくら融通無碍なところのある彼でもあんまりだろう、とアキラは思った。
やけに大人しいヒカルを連れて二人が約束した喫茶店に入った直後、窓際の席に座る男から視線を感じたのが始まりだった。アキラは彼が葛城だろうかと店員の案内を断って、しかしあまりにも不躾にヒカルを見たまま声をかける様子もない姿に違和感を持った。待ち人ではなく単なる囲碁ファンという可能性もある。
事の次第が大きく動いたのは次の出来事だった。アキラがためらっているうちに男の方へすたすたと向かったのはヒカルの方で、しかもあろうことか彼の第一声は「あんたが橘さん?」であった。橘とは誰で、なぜその男は懐かしそうにヒカルを見つめ、そしてヒカルは今日の目的を忘れて男の前に座るのか。
「塔矢アキラさんですか」と尋ねる男の穏やかな声に導かれるように二人の傍へふらふらと近寄り、「私がお電話でお話した葛城です」と差し出された名刺を受け取ってもアキラはまだ呆然としたままだった。ヒカルがさっさと座れと自分の空いた隣の席を叩いている。全てが解せない。怒り狂うヒカルを操縦しつつ葛城から佐為の情報を得ることが今日のアキラの役目であるはずだったのに、その二人がなぜかすでに親しげにメニューを選び始めている。
「塔矢さんは何にされますか? 今日はお呼び立てした私が支払いますのでどうぞご遠慮なく」
「えー、マジで? じゃあ俺はメロンクリームソーダ。塔矢もぼけっとしてないで早く座れば?」
何という傍若無人さ。あなたもそんなに嬉しそうな顔をしないでくれと、アキラはむやみに言いたくなって、ふと気付いた。この場のバカバカしさに思わず席に着いてしまう。
「あなたたちは知り合いなのか」言葉にして、先ほどの葛城やヒカルの様子に違うなと少しだけ訂正する。「進藤、僕に黙って電話したな」
「すげえ。塔矢、お前に探偵の才能があるぜ」
「僕は、君がそんなに僕を怒らせることが趣味だったとは知らなかった」
「ちげーよ、何でだよ。橘さん、俺今こいつのこと褒めたよね?」
「うーん」と、葛城は困ったように笑った。「ヒカルくんから話してくれてなかったのか」
橘さん、ヒカルくん。アキラにとって会話の端から全てが不可解だった。
注文したメロンクリームソーダとコーヒー二つが出揃って、仕切り直しに葛城はアキラに向かって頭を下げた。
「私が進藤ヒカルくんに手紙を出した葛城です。塔矢さんにいろいろと骨を折ってもらったとヒカルくんから聞いて、まずはお礼をしたいと思っていました。ご足労をおかけしてしまったことも申し訳ない」
「橘さん固いってば。勝手に首突っ込んできたのはこいつなんだし、そんなにゴマすらなくったっていいんだぜ」
「なぜ君が答える」ストローを下品にくわえるヒカルに一言置いてから、アキラは如才なく葛城を見た。「僕にそのようなお気遣いは結構です。どうやら僕も今回は要らぬ世話を焼いたようですし」
これは一筋縄ではいかないなと、葛城はヒカルの前で緩んでいた心を引き締めた。進藤ヒカルの子どもっぽさとは対象的に、塔矢アキラは曖昧な大人社会を生き抜くための知恵を身につけているらしい。それでも憤りを胸に留めておけないあたりまだ若いというべきだろうが、その原因を作ったのが葛城であれば甘んじて受け入れようと思った。
アキラが机の端に寄せた名刺に一度目を落とし、まずはそこから切り込んできた。
「先ほどから進藤の言う橘さん、とは? 失礼ですがあなたのお名前ではないようですが」
もちろんその話題にヒカルが食いつかないはずがない。それにしてもヒカルのこの屈託のなさはどうしたものかと、葛城は軽々と懐かれてしまったヒカルの態度をやや持て余していた。それこそまだ、ヒカルにはまともに謝っていない気もするのに。彼が自分を許しているのかどうか、葛城は今どきの若者の考え方を計りかねていた。
「右近の橘って知らねえのかよ。地味だけど、綺麗な白い花を毎年御所で咲かせるんだぜ。なあ橘さん、今度見に行こうよ」
ヒカルが言うとなぜか香辛料の名前に聞こえてしまうから不思議だ。せっかく京都まで足を伸ばすなら二泊くらいしたいなと思いつつ、葛城は午後休をもぎ取ったために詰まりに詰まった仕事のスケジュールにやや気持ちを下げながらも快諾した。あまりの気軽さに御所の所在地をヒカルは知っているのかとふと疑問が頭をもたげたが、「クリームが溶けてしまうから早く飲んでしまおうか」と、やんわりヒカルの口を閉じさせて、全く納得のしていないアキラの顔と向かい合った。
「佐為が」と言いさして、アキラに鋭い反応があったのを認め、葛城は遠い記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと言葉を続けた。「俺に、いつか左近の桜、右近の橘を見たいと言ったんです。別に俺は興味なかったんですが、せっかくもう一度生まれたなら今に続く栄華をいつか見に行きたいと、あいつが昔のことを話すのは珍しかったから。でも桜は女の子みたいで恥ずかしかったので、俺は橘を選びました。あいつが佐為で、俺が橘。子ども心にも釣り合いが取れていると自慢に思っていました。橘の木は俺にこそ相応しいと、佐為も喜んでくれていて」
アキラが眉根を寄せていることに気が付いて、葛城は苦笑してしまった。どこからどこまで話せば良いものか、葛城もまだ決めかねていた。
「佐為は本名ではありません。でもあいつにとっては親の付けた名前より大事なものだったんだと思います、そんなそぶりは俺以外の前では少しも見せませんでしたが。子どもって、びっくりするようなことを平気でやるでしょう。俺たちが急に違う名前を使いだしても誰も気にしませんでしたし、他の子どもたちはむしろ面白がってみんな真似しだしました」
だから当時の現場の混乱ぶりは大変なものだったと後で知り、改めて申し訳なく思う。子どもたちが口々に訴えるそれが誰の話をしているかわからない、その状況は行動管理にかなりの支障をきたしたらしい。子どもらしくブームが去るのも早かったことがせめてもの救いだったと、その頃を懐かしんでベテラン看護師から教えてもらったのは、葛城の長い入院生活にようやく終止符が打たれたときのことだった。二十世紀も終わりに近づき、葛城はもう間もなく成人を迎えようとしていた。
「佐為、さんとあなたは、幼馴染だったと」
「俺たちは同じ病院で育ちました。お互い体が弱かったから、小さい頃からずっとそこで。そして佐為は、病院の外を知らないまま亡くなりました。それが十年以上前の話です」
「十年」と、アキラがますます顔をしかめてつぶやく。「申し訳ありません、あなたの仰りたいことが僕には全くわからない。佐為が、あの佐為が死んでそんなに経っていると? 僕にはとても信じられない……」
乱れた自分の言葉で我に返って、アキラはまだ何か言い足りなさそうな口を一旦閉じ、自らの非礼を詫びた。
「見も知らずの僕が差し出がましいことを言いました。亡くなった佐為さんにも失礼なことを」
「いや、気にしないでください。あなたが何に困惑しているのかわかっているつもりですから」
自分がこの場にいる必要がないと、急に気付いたようにアキラが席を立つ様子を見せたので、葛城は彼を引き止めるために言った。
「どうやら塔矢さんは佐為に会ったことがあるようだから、できれば俺があなたともお会いしたかったんです」
驚愕と不審と、それから僅かばかりの理解の色がない交ぜになった瞳を見て、葛城はこれが見たかったのだと嬉しく思った。間違いなく、ここにも佐為の痕跡があったのだと。
ずごごっとグラスの底を吸い取って、いつもなら即座に叱責を飛ばすアキラは葛城との会話に夢中になっている。ヒカルとてまだまだ佐為について聞きたいこと、知りたいことは山ほどあったが、今くらいはこいつに譲ってやるかとおおらかな気持ちでいた。
葛城が空のグラスに気付いてヒカルにお代わりを勧め、手もとのコーヒーに口をつけた。
「どこから話をしたらいいものか。俺たちは、とても長い長い、覚めない夢の続きを見ているんです」
俺たちと、そこに自分が含まれている気がしてヒカルは嬉しくなった。佐為について話す、他人の語り口がこれほどまでに心地よいものだとヒカルは知らなかった。当初あれほどまでにあった葛城への強い反発心がしぼんでしまったのは、ひとえに彼がにじみ出す佐為への優しい郷愁によるものだろう。
葛城と電話越しに話したのは一度や二度ではない。初めはずっと抱え続けてきた行き場のない憤りを誰彼構わずぶつけたくて、その次にはもうどうしようもなく佐為が恋しくて、葛城が悪魔であろうと何であろうと魂を売ってしまいたい気になっていた。もうひと目だけでも佐為と会えるならと、その願いがヒカルの心の底に根付いてしまった。
「それは、佐為さんがまだどこかで生きているという、夢のことでしょうか」
「佐為がもうこの世にいないのは今話した通りです。ただ、矛盾するようですが、あなたはあいつに会ったことがあります。俺が知るより前の佐為を」そこでヒカルの頼んだチョコバナナパフェが届いて一旦話が途切れ、思い出したようにアキラが冷めたコーヒーを一口すすった。「その辺りの話はヒカルくんの方が詳しいのですが、彼が言うには、自分は佐為によって囲碁の世界に導かれたと。確かに俺の知る佐為は囲碁についてやたらと詳しかったんですが、周りは誰もその強さがわからなくて、その道のプロと対等に渡り合ったなんて俺にはちょっと信じ難い話ですけど」
「それは俺も変だと思う」と、ヒカルは思わず横から口を挟んでいた。「あいつ、周りに強いやつがいなければそれで諦めるような大人しいタマじゃなかったぜ。碁会所でも何でも、殴り込みに行ったと思うけどなあ」
「まるで進藤のようだな」と、アキラがぼそりと言って、ヒカルに拳を握らせた。
「まあまあ、喧嘩しないで」葛城が若い二人のやり取りに段々と慣れてきたように軽く宥めると、ヒカルを優しく見つめた。それが佐為を思い出しているときの目なのだと、ヒカルにもわかってきた。「俺が思うに、あいつは満ち足りていたんじゃないかな。それか、未来には君たちがいると知っていたから。今ではないと、自分の番ではないと、あいつには気付いていたのかもしれない。俺の想像だけど」
「未来がなぜ……彼にはわかっていたと?」
それはもちろん俺についてのべつ幕なしに自慢していたからだとヒカルは確信していたが、葛城が告げたのは意外にも別の名前だった。
「塔矢行洋」びくりとしてアキラの瞼が動いた。「ラジオで彼の試合があるときは、佐為は必ず中継を聞いていました。検査と重なれば俺やみんなに録音を頼むほどで、たぶん、その人の一番のファンはあいつだったんじゃないかな」
「塔矢先生ならシワシワの爺さん婆さんがいっぱいついてるぜ」塔矢行洋に負けたのならしかたないと思いつつも、ヒカルはむっとして言った。自分でもよくわからない張り合い方だった。「佐為だって塔矢先生のサインは持ってないだろ」
葛城は笑い、アキラは笑わなかった。
「確かに色紙は見たことないな。でも、いつだったか佐為は言っていたよ。塔矢行洋は、貪欲に神の一手を極めんとするこの者は、まだ私の知るそこに至らないと。どんなに勝ち星を積み重ねても、彼の道はまだ半ばにも達していないと。いつか新たな天元を見つけ、神の御前に畏まるその日を迎えるまでは、彼の歩みを止められる者などどこにもいないだろうと」
これまで何度も反芻してきたように、葛城は一度も詰まることなく佐為の言葉を諳んじてみせ、そして儚く言った。私は先にそこで待っている、と。
「もしかしてと思っていたが、塔矢さん、塔矢行洋さんはあなたのお父さんですね。佐為は、俺の親友は彼とも巡り合っていたと、そういうことだろうか」
「saiが……」アキラが熱に浮かされたように言った。「あなたの言う佐為と同じか僕にはわかりません。ですが、確かに父はsaiと巡り合っていた」
ネットの中で、と付け加えられて、葛城は合点のいったように何度も頷いた。
「インターネット? やっぱり、パソコンでも囲碁はできるんですね? まだそんなものが影も形もない時代に、あいつは四角い空き箱をどこからか見つけてはこれで遠く離れた人間と囲碁がしたいとせがんできて、周りを困らせていたんです。まあ、あいつが変わったことを思い付くのはそれだけに限ったものじゃなかったんだけど」
佐為らしいと、ヒカルはげらげらと笑い、アキラは今度も笑わなかった。何やら感動に打ち震えている。
「saiは、葛城さん、saiはあなたのそばにいたのか」
「うーん、もう死んでますが」
「でもsaiは、佐為は僕とも打ち合ったんだ。あれが佐為だったのか……奇跡が起こっていたんだ」
ヒカルは「なんかこいつ勘違いしてない?」と葛城に目で問いかけ、葛城がにこやかに微笑むのを見て気が付いた。葛城が誘導したことなのだと。
ヒカルは葛城との電話でのやり取りの中でひとつわかったことがある。それは葛城の親友であるところの佐為は、進藤ヒカルと出会い別れた後の佐為であると。時間の流れはめちゃくちゃだが、そもそも千年前の存在が現代の自分たちの前に現れていることからしてもうめちゃくちゃだ。ヒカルはそういった経験もあってすんなりと理解したが、人には人の度量というものがある。今の話だってアキラが果たしてどこまで納得しているのかどうか、ではお前が論理的に説明しろと詰められたってヒカルには最初からお手上げなのだが。
アキラが冷静になる前に、葛城はすっと話を変えた。
「ところで、ヒカルくん宛てに佐為から預かっているものがあるんだけど」
待ってましたと身を乗り出すヒカルの横で、まだぼんやりとしているアキラがコーヒーの追加を注文している。そこで初めて葛城は、この二人が同年代の友人同士なのだとようやく思えた。あべこべのようでいて、意外とすっきり納まっている。見ていて楽しい関係性だ。見えない佐為もきっと、葛城と同じ感想を抱いていたことだろう。
「うん、実はまだ君に渡せなくて」
「はあ!?」
ヒカルの想像通りの反応に葛城は微笑ましさすら覚えた。
「別にこれは、俺が君に意地悪をしているわけではなくてね、佐為から渡すタイミングを言い付かっているんだ」
「それっていつ? 今の俺ではダメってこと? あ、もしかして、本因坊を取ってからとか!」
「その本因坊が何かはわからないけど」葛城は自分の声が殊更に優しくなるのがわかった。「君が二十歳を迎えてから渡してほしいと頼まれているんだ」
ヒカル少年の傍らにあった佐為がその目で見ることの叶わなかった、そして後の佐為自身にも訪れることのなかった、進藤ヒカルが成人したそのときに。
アキラは挽きたてのコーヒーの香りとは別の、全ての始まりであったあの手紙からふわりと香った何かをまた感じていた。その香りは当然のように、目の前の男からかすかに漂っていた。アキラもどこかで知っているような、彼に良く似合う爽やかなものだった。
「二十歳! また二十歳かよ!」
「うん? もうすぐだろう?」
「最近は何でも二十歳からって、そればっかなんだよ。みんな俺にはお酌しろって言うくせに、俺が酒飲むのはまだ早いって。その割りにはこっそり飲ませようとするやつはいるし、目の前でこれ見よがしに煙草ばかすか吸われるし、挙げ句に泊まりの仕事は必ず親に連絡行くんだぜ。さっさと二十歳になりたい」
ヒカルの他愛もない泣き言に葛城が微妙な顔付きをした。
「うーん、囲碁業界ってよくわからないけど、無理しないでね? 困ったことがあったら俺はいつでも相談に乗るし、労基にも一緒に駆け込むから」
「労基? 労基って何?」
「君が違法に働かされてないか確認してくれるところ。いや、でも待てよ、君はプロ棋士なんだよね、スポーツのプロって個人事業主なのか? それだと俺はどこに行けばいいんだ?」
ヒカルの「橘さんがわからなくて俺にわかるかよ」という、葛城の緊迫した空気とは別の気のない返事に、アキラはようやくその香りの覚えに思い当たった。
「……橘」
自分が呼ばれたと思ったのか、葛城が真剣な目付きでアキラを見た。
「塔矢くんは大丈夫? 君はお父さんのこともあるから余計に言い辛いことがあるんじゃないかな? 周囲に打ち明けるのが難しければ、初対面の俺で良ければいつでも相談に乗るからね」
大人の有無を言わせぬ勢いに押されて塔矢は頷き、慌てて首を横に振った。
「何も、何もありませんから、ご心配なく」
むしろ葛城の方にこそ問題を抱えているのではないかと、聡いアキラは思った。
香りはいつの間にか他に紛れて消えてしまっていた。
1 / 2 / 3 / 4 / 5