葛城が本当にその少年がこの世に実在すると知ったのは、そう遠い昔のことではない。
プロ棋士、進藤ヒカル。
親友との約束の年が迫りつつある頃合いだと、何気なく立ち寄った書店の本棚で生まれて初めて手に取った囲碁雑誌の小見出しに、その名前は素っ気なさすぎるほど明瞭に載っていた。
葛城は「存在したのか」と口にして、そのあまりの事実に狼狽えた。
あり得ないことが起きている。それとも、あってほしいと願ったことが、夢見るように眼前に起きているのだろうか。
葛城が進藤ヒカルの名前を初めて知ったのは、しかしこれが最初ではなかった。
もう二十年以上も前になる。囲碁と将棋、プロとアマチュアの区別もまだつかない時分から、優しさだけを膨らませた声音で何度でも、少年の身に振るこの上なく幸福な喜びや、少年の目じりに留まる露にも勝る悔しさ、そして少年の行く末に広がる果てしない未来について、朝な夕なにベッドの上で葛城は語り聞かされていた。
進藤ヒカルが実在している。それは冷静な頭の中だけで考えればあり得ないことだ。二十数年前から今に結びつくただの偶然だと、それを必然に変えようとする狂気だと捉えられても不思議ではない。
なぜならば、進藤ヒカルは今年ようやく成人するかという、今はまだ大人の庇護下にあるべき未成年でしかないからだ。
葛城がはじめて知ったそのときに、彼はまだ生まれてもいない。
衝動的に購入した雑誌を居間のテーブルに置いて、葛城は悩んでいた。隣には何度も書いては丸めて捨てた無地の手紙の残りを並べ、奥には色褪せた写真の入った写真立てを置いている。
葛城は深々とため息をつき、写真に写る、寝巻き姿のまま無邪気に笑いあう二人の少年の片割れに呼びかけた。「佐為」と。
「お前なあ、ヒカルが本当に存在するってどういうことだよ、一言でもそんな大事なこと言ってたか。あの名前を見つけたときの、俺の動揺を少しは和らげようという気持ちがお前には全くなかったのかよ。だいたい、こんな若い子にどうやってお前のことを伝えれば」
言っても栓のない文句を一頻り垂れて、一人暮らしの部屋の残響に余計に傷ついて、葛城は雑誌の見開きにようよう目を落とした。
進藤ヒカルは若いなりに業界で名が知られているらしく、やり手そうな事情通のインタビュアーとの対談がページを割かれて組まれていた。白黒ながらに掲載された斜めの横顔は、開けっぴろげな笑顔を浮かべていながらも、線の鋭い青年期の顔立ちへと変わりつつある途上のようで、それが一度も会ったことすらない葛城にえも言われぬ感慨を与えていた。
「君は、もうすぐ大人になるんだな……」
佐為の口から飛び出すヒカル少年はいつまで経っても子どものままで、あの子の頑是なさがどうしたこうした、碁の才能が、ライバルが、果ては神がどうのと、看護師が聞けば眉をひそめるようなことをいつも夢想するように話していた。だから葛城は幼い頃、消灯した小児病棟の中をこっそりとヒカルの幽霊を探しに探索したことがある。懐かしい思い出だ。
葛城の中でも、進藤ヒカルはずっと少年のままだった。明るい紅の差した丸い頬に、気の強そうな瞳、目上に対してもずけずけと臆することのない尖った口もと。繰り返される辛い検査も薬の副作用に悩まされる体も、佐為によって生き生きと語られるヒカル少年の健康的で明るい性格にいつも救われる思いがしていた。いっときは幽霊だと、分別がつき始めると佐為の見えない友達だと、葛城は勝手に了解していた。あるいは、本当に実在していたとその頃気付いていれば、大切な親友を取られたとの思いで嫉妬でも抱えていたかもしれない、そんな子ども時代の淡い記憶。
その成長した姿が誌面の上にあった。それが必ずしも葛城の想像通りとはいかなかったが、というよりむしろ、随分と現代的な若者の風采で驚いたほどだったが、その面差しのどこかに佐為の名残りが隠れている気がして、葛城は知らず優しく目を細めていた。
佐為が頻りに言い募った囲碁のプロ棋士という言葉を頼りにそれらしく探し回って、やっぱりいなかったじゃないかと写真の佐為に報告して、それで終わりにしようと思っていた。今日はまだその始まりの一日に過ぎなかったのだ。本当に生きていて、佐為の話すままに笑っていようとは。
進藤ヒカルが佐為を知っている、その可能性がどれほど高いのか、葛城には見当もつかない。それでも親友の遺言をせめても果たしたいと再び筆ペンを手に取った。それが数ヶ月前の話だ。
非通知の番号が胸もとのポケットを震わせたのは、まだ業務延長時間中で、つまり多忙を極める残業中で、一目で個人用携帯と看破した上司から厳しい眼差しを頂戴した。それでも電波の繋がった先が先日送ったばかりの手紙に続くかもしれないという一縷の希望を持ちたいばかりに、上司が席を外す隙を見て休憩スペースに駆け込んだ。その間も、短い沈黙を挟んで携帯電話は何度も震え続けていた。
自販機の低い稼働音を横目に、葛城はそっと電話に応じた。そして電源を落とさずに良かったという安堵と、すさまじい後悔の念に陥ることになった。
耳もとで、まだ若い男の声が語尾を震わせながら葛城を激しく責め立てる。どうして今さらこんな手紙を寄越したのだと、言外に佐為との誰にも断ち切れない縁をこれでもかと見せつけるようにして捲し立てられた。威嚇されているのだろうか、と葛城は思った。彼の大切な心の柔らかいところに踏み入った葛城に対して、早く出て行けと訴えかけている。何度書き直しても結局のところ、葛城は正しい手紙を送れなかったのだ。あるいは、手紙を送ることそのものが間違いだったのだろうか。
電話の向こうで口が開かれる度にその者自身の傷口がひとつひとつ開いていくようだった。彼に浅はかな手紙を送ったと早く謝って、今こそ自分の狂気を彼の心のために肯定しなければならないのかもしれない。
それでも、葛城は現実を認めたかった。それが葛城の子ども時代の終わりから体の一番奥底で抱えている、どうしても手放し難い忘れ形見であり、大人になれぬまま逝ってしまった親友へのはなむけだと考えていた。
できるだけ優しく、しかし冷淡に葛城は告げた。
佐為は、俺の大切な親友は。
「千年前に死んでいる、だろう?」
返事は硬い音のみがあった。石と石が何度もぶつかり合って欠けてしまうような、まさに電話を通してこわく結びついてしまったお互いの心境を表すような反響音が谺としてその場に残った。
佐為の語る夢の続きを現実の世界で確かに掴んだというのに、葛城は虚しさを覚えた。
今日はもう無理だろう。あるいはもう永遠に無理かもしれない。悔いの残る通話を切ってしまおうと葛城が耳から携帯電話を離そうとしたそのとき、涼やかな声が彼をその場に踏みとどまらせた。
「急にお電話を代わって申し訳ありません、塔矢アキラと申します。葛城さんでいらっしゃいますか?」
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