その談話室にヒカルと葛城の待ち人である白衣の男が現れたのは、ある日の昼下がりのことだった。定規をあてて引いたような雨が病棟の連なる間を静かに落ちていた。
「二世先生」
「久しぶりだな、葛城くん」壮年の医師は手前の椅子を引きながら破顔した。「その呼び方も懐かしい。親父が引退してからはもう顔のわかる子もめっきり減ったな」
葛城の隣で柄にもなく緊張したヒカルがぺこんと頭を下げた。お互いに名乗り合って、まだ年若いヒカルに医師は少しだけ不思議そうな顔をしたが、葛城が冗談混じりの近況を話し始めるとそちらに意識が逸れてヒカルはほっとした。
「それで」と、いくらか場が和んだところで葛城は本題を切り出した。「佐為の本はありましたか?」
医師はやや目を瞬いて、テーブルに置いた革鞄から紙袋を取り出しながら、しみじみとつぶやいた。
「佐為、か。君たちは本当に仲が良かったな。葛城くんはなんだっけ、ほら、花だか木だかの」
「橘」と、葛城も懐かしそうに目を細めた。
「そうそう、佐為と橘。随分と古風な名前を付けたなと、職員の間で話題になったよ。まあ、あの子は雅びな感じが良く似合っていたけど」
「俺には相応しくなかったってことですか」
葛城と医師が目を見合わせて笑った。ヒカルはその様子を大人しく眺め、生前の佐為の話、というのも変な気分だが、彼について自分以外の誰かが語り合うのを見て、しみじみとここに来て良かったなと思った。病院は嫌いだが、佐為が過ごした場所と思えば悪くない。
「進藤さん」と、話に置いていかれたように見えるヒカルを気遣ってか、医師が葛城を引き合いに出してまたからかった。「今はこいつも大人ぶってますけどね、あの頃は検査の度によく脱走してなあ。当時は俺が一番若くて舐められてたのか、科の違ううちに逃げ込んでは何故か一緒に怒られてやったもんですよ」
「だってほら、あの看護師さん先生のこと好きだったでしょう。あそこにいれば手加減してくれるかと思って」
「おい……、待て待て、俺の知らない話をそんなふうにさらっと言うんじゃないよ」
「そうでした? 先生はわかって気付かない振りしてるんだって、俺はそっちに賭けてたから残念です」
「お前なあ……」医師が完全に呆れた顔をした。「これがやんちゃ坊主ご所望の佐為の本だよ」
わかりやすく話を逸らすように、医師が紙袋から古びた紙束を取り出した。
ヒカルはしばらくそれを眺めた末に、ようやく素人の手ながら糸で綴じられた一冊の本なのだと後から気付いた。今はそれよりも目を引き付けられるものがあったからだ。
表紙に縦書きで、囲碁の手引き、とくずし字で墨の痕も鮮やかに書かれている。そして左下に小さく遠慮がちに、佐為、とも。よく物を知らないと笑われるヒカルでも、それくらいは辛うじて読める。それくらいは手習として覚えさせられていた、その名を持つ当の本人から。
佐為の本。
てっきり、佐為が愛読していた本か何かかと深く考えもしないでいたから、国語能力が壊滅的な自分でも読めるのかなどと見当違いの不安を覚えていた。
だからそう、まさかここで佐為の手跡を見ることができるとは。
いや、まだそうと決まったわけではない。ヒカルは恐る恐る葛城を見て、葛城が優しく頷くのを見て、無性に泣きたい気分になった。
ヒカルの手が本に伸びる。碁石を挟むたこのついた指が筆の跡に触れた。
これが佐為の書いた字、佐為の生きていた証。
十数年の、あるいはもっと途方もない時代を隔てた今、ヒカルはようやく神と舞い遊ぶ佐為の右手を掴むことができた。
「先生」と、葛城が医師を誘って席を離れたことにヒカルは少しも気付かなかった。夢中で表紙を眺め、涙をただ堪えていた。
葛城は懐かしくも随分と変わってしまった病院の廊下を医師と連れ立って歩いていた。院内は当時よりも明るい色彩の目立つようになった気もするが、心華やぐというよりむしろ時の無情な流れを感じさせて、葛城は消えゆく過去への寂しさを覚えた。
「ヒカルくんは」
葛城は言いさして、隣で医師が首を振るところを見て押し黙った。
「ここは病院だから」
病院は、多くの人間の苦悩や後悔が交差する混沌の場所だから。うわべだけで取り繕うとかえって痛みが増すばかりだと、医師は静かに制した。
葛城は、目を潤ませて本を見つめるヒカルの横顔を思った。若い彼は、まだ佐為との今生の別れに思い立てていない。
それが佐為がこの世に残した後悔だと聞いている。明るく笑い、ときに本気でぶつかり合いながらも絆を深める様子を身振り手振りを交えて話す佐為とヒカルの物語の結末は、いつも後悔の言葉だった。ヒカルの前に座り、共にもっと碁を打ちたかった、もっと話し、笑い、彼の成長を見守りたかったと。
その思いが最期にヒカルに伝わってしまったのではないかと。
だが、ヒカルの様子だけを指して医師が言っているわけではない。葛城はかつてお世話になった先生を思い出していた。この医師の父親もまた、何でもお見通しの眼差しで子どもたちの心の健康を助けていた。
葛城は胸に刺す痛みを自覚して進む足取りを緩めた。佐為との別れ難い思いを抱いて生きているのは、何もヒカルだけではない。
空想ではない進藤ヒカルを現実に認めて、葛城は愚かにもまず佐為の面影を求めた。ヒカル少年が初めにそうであると思ったように、そして佐為自身がかつてそうであったと言うように、葛城の親友もまた幽霊となって現れてくれはしないかと願わずにはいられなかった。佐為がこの世にやり残したと言う後悔の続きを手伝いたいとの純粋な思いとはうらはらに、佐為がどこかで葛城に向かって手を振っているのではないかと心の底でひっそりと探していた。
今を生きる人間が死者に引きずられるべきではない。冷静な頭ではそう考え、これまでも他人事のように確信していた。
だが、進藤ヒカルの実在を知って、佐為の語る真実の面を知って、葛城はもう囚われてしまった。
医師は葛城の物思いに沈んだ顔を見て、ゆるゆると通り過ぎようとする階段の前で引き止めた。
「葛城くん、あの本は君たちにあげるよ。親父ももうボケ始めてね、押し入れの奥にしまってあるよりも、君たちの手もとにあった方がよほど相応しい使われ方だろう」
そして脇に挟んだ革鞄から一枚のチラシを差し出した。
「これは」
葛城は驚いて、受け取った紙をまじまじと見つめた。その顔がどこか先ほどの青年と似ていて、医師は少しだけ笑ってしまった。
紙にはカラフルな文字で「たのしい佐為杯」と銘打たれている。
「懐かしいだろう、君が始めたんだ。あの子はその名前を恥ずかしがっていたけど、大学のボランティアの子たちが手伝いに来てくれて毎年引き継がれているんだ」
今ではすっかり囲碁と関係のないお遊戯会になってるらしいけどね、と医師は付け加えた。そして若輩ながらも自身の父親の代わりに葛城を前に進ませる一助になればと思って言った。
「裏にご両親の連絡先をメモしてある。本を君たちに譲るにあたって、一応断りの連絡をしておいたんだ。そしたら葛城くんと是非話がしたいと、あの子のことをまだ忘れないでくれているなら思い出話でもしたいと、君に言付かってね」
上げた葛城のもろい顔付きを見て、医師は優しく肩を叩いた。
「今日、君に会えて良かったよ」
そのときアキラは、兄弟子にあたる緒方と隣国の目新しい棋譜について立ち話をしていたが、ヒカルが物凄い形相で日本棋院の廊下を駆けてくるのが見えてぎょっとなった。
「塔矢!」
当然のように緒方への挨拶はない。むしろ目にも入っていない様子でアキラの体をぐいっと自分の方へ向けると、アキラが非礼を叱りつける前に思いもよらないことを口にした。
「お前にはこの間世話になったから」世話になる、という言葉を知っていたのかと、無視された緒方は気にするそぶりも見せずに含み笑いをしていたが、続く台詞に唖然としていた。「ちょっとそこまで佐為の墓参りに行かね?」
塔矢はもちろん叫んでいた。ことの経緯は全く見えないが、少なくともこれこそが進藤ヒカルに相応しいという並々ならない自信があった。
「君は馬鹿か!」
その後あちこちで起こった衝突を経て、結局アキラは墓参りの旅に同行することになった。ちょっとそこまで、という言葉に裏切られながら。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする・了
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