これは進藤への個人的な同情心なのか、それとも、もろく崩れた心を付け狙う碁打ちの野心なのか、アキラには判然としなかった。伸び切ったコードの先で揺れる受話器を拾い上げ、気付けば本人の代わりに次の約束を取り付けていた。
 葛城と名乗る男はヒカルの取り乱した様子を酷く案じていたものの、故人から進藤ヒカル宛てに預かっているものがあるとして、直接会えるようならそうしたい、と遠慮がちに言った。アキラは葛城の勤務先の近くだという喫茶店に、むしろ知り合いが近寄らなさそうな場所で都合が良いと密かに同意して、手早く会合の段取りを組んだ。そしてヒカルが茫然自失としているうちに通話は切れ、わずかに点いた蛍光灯のジジッという音だけが廊下に残った。外はすっかり日が落ちていた。
「進藤、いつまでそこに座り込んでいるつもりなんだ」
 反応の薄さにさすがのアキラも不安になったが、傍らに膝をつき、ヒカルの手にしっかりと握り締められている手紙を認めてやや希望を取り戻した。それが破り捨てられないうちはヒカルの心も目の前の現実に揺れているだけだろうと。
「葛城さんに会って、話をするんだ。まだ心は辛いかもしれないがそれで整理されることもある」
 アキラは人間として真っ当なことを口にして、その考えに遅れてほっとした。だがヒカルがふっと顔を上げたとき、アキラの心を薄く覆った白妙の向こうまでも見通される思いがした。
「佐為は誰にもやらねえ」ヒカルは急に立ち上がり、怒りを宿した目でもう一度言った。「葛城にも塔矢にも、誰にもやるもんか」
 母親の袖を引く子どものようなことを言い捨てて、憤然とヒカルは棋院を飛び出した。
 もう彼を追う気力はアキラの中に残っていなかった。
「……佐為、か」
 まるでまだ生きているようにヒカルは言った。
 アキラがその名前を思えば、自ずと進藤ヒカルと初めて対峙した一局が脳裏に広がる。美しく、そして容赦のない強さを持つ星々の並びに、アキラはその後の人生を強制的に変えさせられた思いがしたが、それを煩わしいと思ったことも一度もなかった。あの深淵に立つ精緻な美しさを知って後悔する棋士が果たしてこの世に存在するだろうか。
「彼を知りたい」
 例えすでに亡くなっていたとしても、彼の足跡を、思考の跡を、その全てを知って自らの碁の糧としたい。だが、その欲望が人間としての道を外れていることもわかっていた。ヒカルの懊悩を間近に見れば、囲碁に対する形振り構わない情熱が思わず窮してしまうほどに。
 生まれながらに周りの大人たちから礼儀作法を厳しく躾けられてきた塔矢アキラには、自らにも潔癖すぎるきらいがあった。それを緒方あたりは「まだ青い」と称するだろうが、アキラには未だ至らぬ境地であった。
 悩める青年の戸惑いは辛うじて手合いへの影響を免れたが、いま一人を知る者の間で風の速さで広まった大荒れの盤面を後に知って、アキラに一つの決断を下させた。
 縛り付けてでも手紙の差出人の前へ連れて行こうと。

 暗い携帯電話の画面に自らの顔を映して、葛城もまた思い悩んでいた。第一報として佐為の死を知らせたのは早まったことだったかと。かと言って進藤ヒカルと直接的に繋がる手段がない以上、間に挟まる他人から怪しまれないよう言葉を弄する必要があり、当たり障りのないファンレターのような形で送ったところで正しく本人の手もとに届くか不安もあった。そもそも囲碁のプロの世界にファンレターなるものがあるのかどうかすらよくわからないが、少なくとも偽りの気持ちを綴ったそれよりは本人の目に通るだろうと思い、他者の介在を気にしながらも事実のみを書いて投函した。
 今となっては自分がどんな反応を想像して書いたのかわからなくなる。まだ見ぬ進藤ヒカルが手紙を受け取って、佐為の名前に心当たりがないと突き返してくるか、よしんば知っていたとしても幽霊が死んだなどと面白がって笑われるか。
 あるいはそう、例えば葛城と共にその死を悼んでくれるとか。
 そうであって欲しいと願い、全ては葛城の思いを優先して書き急いでしまったのだ。
 葛城の抱える憂鬱で外の帳よりもなお暗い休憩スペースに、葛城の他部署の同期がふらりと足を踏み入れて、彼は思わぬ空気の重さに顔をひきつらせた。
「なにお前、仕事でなんかやらかしちゃった?」
 スパッと相手に切り込むところがこの同期の美点なのだろうと、葛城は折りたたんだ携帯電話を胸ポケットに入れながら、また憂鬱になった。仕事のことなどすっかり忘れていた。もう上司は席に戻って葛城の不在に気づいた頃だろうか。いや、まだ間に合うかもしれない、しかしこのままではとても集中できそうにもないし。
 同期は悩める葛城の肩をぽんと気軽に叩くことで慰めて、自販機の数あるボタンの中から一つを迷いなく押した。がこん、と気の抜けた音がして、葛城はふとそれで日常に舞い戻った気持ちになった。先ほどまでも確かに現実の延長線上に電話は繋がっていたはずだが、結局のところ葛城には未だに進藤ヒカルという存在への現実的な手触りを持てないでいたのだ。
 同期が自販機から取り出したペットボトルを飲み干す勢いで中身を減らし、生き返ったような声を出した。
「なんでか、お前に会うとこれ飲みたくなるんだよな」
 子どもっぽいと笑われるから席に戻らずここで飲んでしまうらしい。凛々しい眉毛のついた果物のラベルに葛城はさもありなんと頷いて、まだ電話の彼と精神年齢の近そうなこの男にダメ元で尋ねてみた。
「大学生くらいの子の機嫌を直すにはどうすればいいと思う?」
 すでに世間では社会人という扱いらしいが、葛城からすればまだ世の濁りを知らない未成熟さを感じた。それが余計に記憶の少年を思い起こさせて現実味を覚えられない理由なのかもしれない。
 同期の男は、定時の過ぎたオフィスビルの片隅で個人的な問題に思い悩む葛城をまじまじと見た。
「お前、未成年だけはやめとけよ」
「いや、何でだよ」
 確かに外れてはいないが、その意味するところは大いに間違っていた。
「男だよ男。えーっと、大きくなってから久しぶりに会う甥っ子、みたいな? 会う前に怒らせてしまって、どうしたら俺とまともに向き合ってくれるだろうかと、いや、そういう意味ではなく」
 葛城自身でもなかなか怪しい説明だと思ったし、かなり不審な目も向けられてしまったが、同期の答えはあっけらかんとしたものだった。
「そんなん、誠心誠意謝るんしかないんじゃねえの? 大学生なんて見てくれだけは立派なまだ子どもだろ。下手に大人の理論を振りかざしたらすねちまうぜ」
「……謝るって、俺は何を謝ればいいんだ?」
 「知るかよ」と同期は呆れて空のペットボトルをゴミ箱に放り投げ、さっさと休憩スペースを出て行ってしまった。このとき葛城にそれなりの気力がまだ残っていれば、同期へ牽制するなり口止めするなりしただろうが、後になって自分を巡るとんでもない噂にまた頭を抱える羽目になった。
 もうこのまま帰って寝たいと、社会人としてあるまじきことを葛城は思った。謝るとは、何を謝ればいいんだ。佐為が死んだことか。あいつの寿命までは面倒見きれないぞと、葛城はひとり唸った。
 そうやってくだらないことを考えても、実のところ、僅かに繋がった縁が捩れてしまった原因は、苦しいほどにわかっている。
 葛城の抑えきれない昂りが全てを台無しにしてしまったのだ。千年前に死んでいる、その言葉の裏に歓喜への助走があったのだと、葛城は認めないわけにはいかなかった。電話口の硬質な音と共に進藤ヒカルの心に開かれた傷は、葛城に確かな手応えを感じさせていた。彼が喉を枯らして叫ぶ佐為の残像に、葛城を置いて逝ってしまった親友の姿が寸分の狂いもなく一致してしまったのだ。
 あるいは、狂っているのは葛城の心の方なのだろうか。葛城には、これが果たして現実だと思っていいのかどうかわからなかった。
 そしてある日の夜更けに、葛城は再び進藤ヒカルからの電話を受け取った。

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