まるで振られた恋人を未練がましく追う元カレみたい、という芦原の言葉がアキラの頭から離れなかった。
久しぶりに開かれる研究会の時間にはまだ早かったが、緒方に引きずられるようにして塔矢家を訪れた芦原が兄弟子の居ぬ間にこっそりとアキラへ耳打ちしたのだ。故人が絡む問題にその例えはどうなのだろうかと思ったが、アキラは無用な荒事を避けるため、約束の時間まで心を無にして父と緒方の対局を見守った。
やがて、残暑が弱まり俄かに秋の気配の漂う軒先きから緩やかな車のブレーキ音が聞こえた。いつもは集中をかき乱さないために閉め切っている縁側も今日このときは開いていて、砂利を踏みしめ、インターホンを鳴らすかすかな音さえもよくわかった。
「お父さん」
アキラは手もとの旅行鞄を引き、そっと父に声をかけた。行洋は碁盤から目を上げてアキラに軽く頷いたが、アキラが敷居を跨ぐ間際になってふと気付いたように膝に手を置いた。
「すまないね、緒方くん」
一度席を外す、と伝えられた緒方の方こそまさに席を立ちたそうにしていた。アキラが思わず「元カレ」とつぶやき、芦原の失笑を誘った。話の筋がわからないはずの緒方が不快そうに芦原を見ていた。
玄関口では母の明子が客人の応対に当たっていた。差し出された紙切れを受け取り、まあまあと頬に手を当てて何やら嬉しそうだ。
「やあ、アキラくん」と、アキラはそこで初めて彼から下の名前を呼ばれた気がしたが、特別な不快感はなかった。「車の酔い止めは要らなさそう?」
「おはようございます、葛城さん。大丈夫です」
「ちょうど今君のお母さんに連絡先を渡しておいたから、何かあれば悪いけど電話させてもらうね」
明子の手もとをちらりと覗くと、確かに葛城と宿泊先のものが書かれていた。ということは葛城にも何か渡したのだろう、葛城は財布をズボンの後ろポケットにしまうところだった。
そこでふと、アキラは自分がまだ未成年であり、塔矢明子の息子であるのだとしみじみと思い当たった。もちろんそれを忘れたことなどなかったが、葛城の自然な対応があまりにも新鮮だったからだ。
塔矢アキラという存在は、人生の大半を塔矢行洋の息子として扱われている。翻って塔矢明子の息子として扱われることはほとんどなく、あるいは全くないと言っても過言ではないかもしれない。それほどまでに塔矢家の見えない基礎から父の名前は根付いていた。
それに対して明子が燻る思いを抱えているとは少しも感じたことがなかったが、おもねりや屈託もなく母の大切な息子として扱われることに一人息子として面映い思いがないではなかった。隣で明子が同じような顔をしていたことを、若いアキラは気付かなかった。
アキラが外靴に履き替えているうちに、和室に続く廊下から行洋が現れた。さすがの葛城も驚いたようで、頭を下げた腰つきに強張りがあった。
「葛城です、初めまして」
父と葛城の間に挟まれて、アキラの体に俄に緊張が走った。行洋に今回の旅の目的について詳細に語ってはいなかったが、当然のように佐為の名前をどこかで耳にしているはずだ。何せヒカルが軽々にしたあの発言は、棋士のプロアマを問わず囲碁界をそれなりの強さで揺るがせたのだから。首謀者はさて置き葛城に自覚のないところもまた、アキラをして父を前に緊張させられる理由であった。葛城が囲碁の世界に疎いこと、それによって困った立場に追い込められやしないかとの漠然とした不安がある。
父から佐為について何か言及があるのかと、墓参りの段にあってもまだ自分自身の中ですら整理のつかない話題にアキラが恐々としていたところを、底抜けに明るい声が突き破った。
「あーっ! 塔矢先生じゃん!」
先日、アキラより一足早く二十歳になったばかりのヒカルが、玄関扉の脇からひょっこりと顔を覗かせた。続く言葉にアキラは短く呻いた。
「橘さん、ちょうどいいじゃん。佐為のために塔矢先生からサインもらっとけば?」
「う、うーん?」
進藤さんは相変わらず元気がいいわねえ、と明子が嫌味なくにこにこする前で、葛城があからさまに狼狽えていた。ヒカルが車の中で大人しく待てないことが予想外だったようだが、付き合いの長いアキラはさもあらんと思った。彼の空気よりも軽い言動に頭の固いアキラもさすがに適応し始めていた。
アキラがこの件で先ほどと打って変わって鷹揚としていられたのは、葛城がやんわり断りを入れるだろうと考えていたからだ。
「あなた、サインですって。それくらいいいんじゃありません?」
事情を知らない明子の気軽さに思いがけず今度はアキラが狼狽えてしまった。明子は短いやり取りの間に葛城をすっかり信頼したらしく、普段なら出しゃばらないことを、小首を傾げてどうかしら、と聞いている。
ヒカルの声に誘われてか、あるいは佐為の名前に引かれてか知らないが、芦原が行洋の後ろで興味津々に顔を出している。仕事とは関係のない、ただの個人的な旅行に出かけるというだけのはずなのに、出発する前から大ごととなる予感にアキラは焦りにも似た恥ずかしさを覚え始めていた。
葛城は、塔矢行洋の戸惑う様子を見て自身もまた戸惑っているのを感じていた。漠然としていながらも、初対面の彼の戸惑いの理由をわかる気がしたからだ。それがヒカルの不躾なお願い故ではない、何かもっと別の理由を。
「佐為は」と、葛城は思いつくまま口にして、家中の男たちの視線が強く集まるのを感じややたじろいだ。「佐為は、塔矢先生のファンでした。もう亡くなっていて、この旅行では彼のお墓参りも予定しています。アキラくんともちょっとしたご縁があったので今回お誘いしました。サインはもちろん彼も喜ぶと思うのですが」
塔矢アキラの生家に似つかわしい立派な邸宅の玄関を眺めて、葛城はテレビか何かで見たことのある左馬を思い出していた。墓参りに縁起物を連想させるのは相応しくないかもれないが、それが佐為の望みにも通じているのではという考えが心に兆していた。ヒカルには申し訳ないが、サインよりも。
「あいつは、何よりも先生と囲碁を打ちたいと願っていました。他のことは赤ん坊みたいにまるで知らないのに、囲碁だけはびっくりするほど達者でしたから。ええと何だったか、専門用語で一局手合わせする、と言うんでしたか? まああいつは、一局でも二局でも、何局でもと言い出しそうなんですが。意地汚かったので」葛城は笑ってしまって、他人の玄関先でそんな場合ではないかと口もとに手を当てた。その指先が緊張でかすかに震えていた。「だから、もしそんなことが許されるならですが。先生の、塔矢先生の碁石を一つ預かることはできませんか? 墓参りから戻ったらお返ししますので、佐為と手合わせ願えませんか。それがあいつの一番の供養になると思います」
自分の口から供養という言葉がするりと出たことに葛城はひっそりと驚いていた。まだ自分の中で佐為を供養できていなかったことに、今さらながらに供養する気が自分の中で芽生えていることに、心の底から驚いていた。
行洋は葛城の不埒な願いを聞き終えてからも、静かにじっと葛城を見つめていた。葛城の真意を見極めるようでもあり、深い感慨にふけっているようでもあって、誰も、あのヒカルや彼の妻ですら口を挟めなかった。恐ろしく時間が引き伸ばされたように感じた後で、遠い未来、あるいは遥かな過去を思い起こさせる声音で塔矢行洋は告げた。
「彼との対局は、私にとっても生涯の誇りとなるに違いない」
「碁石を取ってこよう」と言う行洋に葛城は深く安堵して、すぐに目を瞬いた。
踵を返した行洋の目の前にすでに碁笥が二つ差し出されていたからだ。葛城はその青年の名前を知らなかったが、棋士としての腕前は今ひとつ伸び悩みつつも何かにつけ要領のいい芦原が、話を聞いてすかさず用意していた。アキラが彼に不釣り合いな若者的な言い回しで、何故か「元カレ」とつぶやいた。
間近で見る白と黒の石に、葛城は懐かしさを覚えた。佐為が逝ってから囲碁に接する機会もすっかり失われていたが、碁石とはこんな形をしていただろうか。
行洋が迷いなく黒い方を手に取ったので、碁笥を持つ芦原の目が見開かれた。
「これを」年老いた指につままれた一つの小石が、水をすくうように広げられた葛城の両の手のひらに乗せられる。「右上スミ小目と伝えなさい。私はいつまでも彼の次の一手を待っていよう」
「右上スミ小目」と、その男は覚束ない口振りで塔矢行洋の一手目を復唱し、碁笥を持ってきただけの芦原でも思わず照れてしまうような優しい顔で、碁石を愛おしむように両手で包んだ。「佐為に伝えます」
その横でヒカルがちゃっかりと行洋にサインをねだる一幕もあったが、芦原は彼らが出かけて行くのを見届ける前に和室に戻った。
「芦原」
縁側に立つ緒方が碁笥を大事そうに抱える芦原を振り返りもせずに言った。緒方の視線の先で、エンジンのかかり始めた車体が淡い日差しを受けて陽炎のように短く揺れている。
「後で殴らせろ」
まるで今殴られたかのように芦原は悲鳴を上げた。
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