組み分け帽子は高らかに歌う。
誠の心を持つ者は、ひたむきな努力を最良の友とし豊かな大地を踏み固め、真実への道を忍耐強く掘り進む。若き未来にあまたの道あれど、きみこそそこに相応しい。
「ハッフルパフ!」
ラッパスイセンの花の色が首もとではためいている。白い息を吐き出しながら寒空へと飛び上がり、ブラッジャーの妨害を寸でのところで避けながら急旋回して敵チームを振り落とす。
広々としたフィールドが前方にひらけている。頬を刺す風の行手を遮るものはどこにもない。眼差しの先では、黄金に輝く栄光が彼を誘うように横切っていった。
歓声が長く耳もとで響いている。逸る吐息が世界を白く染めていく。
「シーカーが取った! ハッフルパフの新しいシーカーがスニッチを取ったぞ!」
雲を引き込む峰のように、螺旋階段が細く高く続いている。彼は穏やかな足取りでその歩みを止めることがない。
大勢の友人に囲まれて屈託なく笑う顔。見知らぬ女子生徒にメッセージカードを渡されて困ったように眉根を下げる顔。燃え盛るゴブレットに自分の名前を吐き出され、興奮と歓喜に赤らむ顔。少年から青年へと、少しずつ彼は階段を登る。一歩ずつ、慎重に、丁寧に、穏やかに、明るい日差しを額に浴びながら。
「……彼は、僕に連れて帰ってくれと、両親のもとに連れて帰ってくれと言いました」
そして、青々とした大地の上に横たわる青褪めた顔。取り囲む人々が彼の名前をしきりに叫んでいる。セドリック、セドリック・ディゴリー。どうしてそんなところで眠っているの。セドリック。冗談はやめて、今すぐ目を覚まして。
あなたは黄金に満ちた栄光のさかずきを掴み取ったのよ。
「セドリック……!」
視界に闇が落ちてきた。天蓋付きベッドの暗闇のなかで、両目が限界まで見開かれ、血管の浮いた両手が口を覆って悲鳴をそこに押しとどめている。
呼吸が獣のように荒い。冷や汗が脇腹を流れ落ち、濡れた頬を拭ってカーテンをめくれば、よそよそしく打ち解けきれない最初の挨拶を交わしたばかりの同室の少女たちの静かな寝息が聞こえた。
ホグワーツ初日の、まだどんな物語も始まらない夜更けのことだった。
怖い夢を見た気がする、と
ブリジットは涙の溜まった目尻に指を這わせ、次の瞬間には少しも色褪せることなくよみがえった悪夢の記憶にぶるりと体をふるわせた。九月のはじめ、季節はまだ夏の陽気を楽しんでいるにもかかわらず、体は凍った湖に落ちたあとのように冷えきり、肌は恐怖で鳥肌立っていた。
セドリック、と悲しげに呼ばれていた少年の名前を知っている。大人しそうで、少し人見知りの気のありそうな少年が背の高い魔女に名前を呼ばれて全校生徒の前で古びた帽子を被っていた。そこでは誰もが悲しんでなどいなかった。寮名が高らかに宣言されるたびに在校生たちが手を叩いて喜び、ほっとした顔の一年生たちが長テーブルに招き入れられる。そのひとりが彼だった。
「……セドリック」
ブリジットは馴染みのない名前を口のなかで転がし、隣のベッドの身じろぐ音に動揺して到着早々に放り込まれた共同部屋から抜け出した。
深夜にもかかわらず談話室にはあたたかな明かりが灯っていた。階段を下りる足音に気づいた上級生の先輩が
ブリジットを認めてにっこりとほほ笑み、彼女を迎え入れた。
「おいで、あなたも眠れなかったのね」
宙に浮いた燭台を取り囲むように、
ブリジットと同じ一年生が何人かソファに深く沈んでいた。そのうちのひとりがうとうとと頭を揺らしはじめると、立ち並ぶ蝋燭の炎が一本だけふっと消え、静かにきらめく星となってアーチ型の天井の夜空を飾った。上級生の男子生徒がその男の子を寝室に連れて行くと、女子生徒が
ブリジットを空いたソファに座らせて、杖のひと振りで透き通った香りの立つティーカップを握らせた。
「聖マンゴ特製のハーブティーよ。これを飲んだらぐっすりと眠れるわ」
女子生徒は
ブリジットの血の気の引いた顔を覗き込み、その頬を優しく撫でた。
「かわいそうに、泣いていたのね。パパとママが恋しい?」
その言葉に、
ブリジットは白く血の気の失せた顔をますます白くさせた。
パパと言われても、思い浮かぶのは
ブリジットの人生において何の関わりもないひとりの男性だった。
ディゴリー家の家長。セドリックのパパは、いかにも子煩悩の父親といった様子で炎のゴブレットに選ばれた息子を誇らしそうに見つめていた。息子の大いなる可能性に胸を膨らませて、たとえ課せられた試練に失敗したとしても立ち向かった勇気を賞賛こそすれ、失望など絶対にしないと確信が持てるほどの愛情を寄せていた。
その彼が、物言わぬ愛息子を抱えてどれほど嘆くだろうか、どれほど悲しみに打ちひしがれるだろうか。
目を閉じたセドリックの顔が大きく引き伸ばされる。
「わ、わたし……」
舌が絡まった。あえぐ唇がひび割れ、喉が引きつる。まぶたの奥にはまだくっきりと、青褪めた青年の死に顔が映っている。ぐったりと横たわって力なく四肢を投げ出している。
あれは、死者の顔だった。
手のなかのハーブティーが恐怖で波打った。
セドリック・ディゴリー。ハッフルパフの寮生に歓迎されていたあの男の子が実際にどんな声で話し、どんな顔で笑うのかを
ブリジットは知らない。これから数年後には多くの生徒に慕われ、年下の女の子に恋心を寄せられるさまを想像するのはとても難しい。想像よりもはるかに実感を伴う悪夢の記憶が
ブリジットの頭から離れなかった。
「ああ、かわいそうに」
女子生徒が寒さと恐怖にふるえる一年生の背中をこすった。その首もとを落ち着いた色合いの青とブロンズのストライプが彩り、襟もとを飾るのはよく磨かれたピンバッジ。悪夢のなかでも、そのバッジを身につけて照れたようにはにかむ姿があった。
一枚一枚、残酷に払いのけられる七色のインクを吸ったベールが
ブリジットを打ちのめす。その先に待つ真実が恐ろしかった。
「どうしよう……ほんとうに死んじゃったらどうしよう……。これは夢? それとも現実なの?」
ハーブティーに映る顔がゆがみ、水面にしずくが落ちて波紋を広げた。
涙を流す
ブリジットの隣に、残りの一年生を送り届けてきた男子生徒がどさりと座った。
「参ったな……ここまで泣き虫なレイブンクロー生ははじめてだ」
「ちょっと、やめなさいよ」
咎める声に男子生徒は肩をすくめる。
「だってそうだろ。きみはさっきからいったい何を心配しているんだい? 自分がいない間に実家で火事でも起こると想像してるのか? それともまさか、闇の帝王が去った魔法界の行く末でも気になるかい? もし後者なら、きみは是非ともトレローニーの授業を受けるべきだ」
火事で死ぬ。それは不幸なことに、新たな啓示を
ブリジットにもたらした。燃え盛るゴブレットが、巨大なドラゴンの気まぐれな吐息が、青い芝生を黒々と燃やし尽くす。
ブリジットは不安そうな目で上級生を見上げた。
「わたし……怖い夢を見て」
「そうだろうね。ほら、ハーブティーを飲んでしまい。そしたらきみの心配事は全部きれいに消し飛んで、朝までぐっすり眠れるよ」
促されるままおそるおそる口をつけたティーカップの中身はまだあたたかかった。女子生徒がほとんど抱きしめるように
ブリジットの体に腕を回し、大丈夫よとささやきかける。
「大丈夫よ、この場所は何といっても偉大なるダンブルドア先生のいらっしゃるホグワーツ。どんな悪い夢も彼が追い払ってくれるわ」
「それから僕たち知恵の者がね。きみが真にレイブンクローに選ばれたと思うなら、恐怖に打ち勝つ方法を学べばいい」
特別な茶葉から抽出された一滴一滴が
ブリジットの体のなかへ流れ落ちるごとに、穏やかな睡魔が忍び寄る。
目をつむれば、まだそこに死の影が横たわっているように感じる。穏やかで心優しいところが取り柄だった少年から、たくさんの友人に囲まれるまでにいたった青年への変貌は目を奪われるばかりに鮮やかなのに、その先は一転して暗闇だった。板の抜けた階段の細い暗がりを覗き込むのはまだ恐ろしい。
「大丈夫……、大丈夫」
「そうよ、大丈夫」
それがはじめて学んだ魔法の言葉だった。ティーカップの底では青空を背に古城が立ち、把手にはワシの翼があしらわれている。
レイブンクローは知恵ある者を尊ぶ。生まれの違いによる諍いも、信条を異にする寮同士のいがみ合いも、ホグワーツの歴史を紐解けばささやかなすれ違いに過ぎなかった。
英知は恐怖を打ち払う。
だがときには、真実が恐怖を増幅させることもある。
籠を引く骸骨のような体。蝙蝠に似た両翼は折りたたまれ、闇のなかへ溶け込むようにひっそりと静かでありながら、ひとたび見てしまえばけっして忘れることのない死の底から這い出た闇夜を疾駆する天馬。
ブリジットはそれまでからだと信じていた空間に突如として現れたセストラルの実像を目に入れ、図書室で借りた本の一文が頭を駆け巡り、クリスマス休暇終わりの騒がしいホグワーツ中を涙目で走り回ることになった。その姿は、わずか数ヶ月ばかりのうちにすでに生徒たちの見慣れたもの、笑いの種となっていた。
心配性のレイブンクロー生。入学間もなくからの図書室通いは所属する寮の特質からいって珍しいものではなかったが、目を赤く腫らして朝食の席に着き、何かにつけ他寮の同級生を気にかける態度は大広間の壇上からも目立っていた。半月型の眼鏡の奥が彼女の視線の先をすくい上げる。
「……セドリック!」
「
ブリジット?」
まだマフラーを巻いたままの背中に飛びつけば、おっとりとした声が名前を呼び返す。青褪めた危険の気配はどこにも見当たらず、魔法使いの閉ざされた家庭で大切に育てられた一年生の少年は、性別の違いをまだ少しも気に留めていなかった。
「どうしたの、
ブリジット。クリスマスプレゼントはちゃんときみのところに届いてた?」
「わたし……わたし、あなたに贈るの忘れてた!」
違う意味で顔を青褪めさせた
ブリジットに、セドリックがくすくすと笑う。その笑い方は幼く、どこかいたずらっぽく、まだあの顔と重なるところはなかった。
ブリジットのベッドにだけ忍び込む暗い夢は、いつもたったひとりの青年の死によって夜明けを迎えていた。
「うん、知ってるよ。だから今度のよく晴れた休みの日に、湖までピクニックに出かけるのはどう? 六年生の先輩から
ブリジットの気に入りそうな場所を教えてもらったんだ」
きょろきょろと周囲を見渡し、
ブリジットの耳に手を当てて小声でささやく。
「ほんとうはハッフルパフだけの秘密の場所なんだよ」
「でも、湖なんて危なそう……」
ブリジットの目が潤む。悪夢の記憶は何かにつけ彼女の頭のなかをかき乱していた。
もし湖底から巨大イカが現れて、セドリックを引きずり込んだらどうしよう。もし冷たい水を引っかけられて高熱を出したなら、新鮮な肉を狙う禁じられた森のヒッポグリフが上空から襲ってきて、鋭い爪で攫われたらどうなるか。
次々と湧き上がる妄想に取り憑かれ、セドリックの誘いに興味を引かれながらも
ブリジットはまごついた。その手を優しく取られ、生徒であふれかえる大広間を抜け、レイブンクロー寮の塔に続く渡り廊下まで連れてこられる。
「ほら、大丈夫。きみはちゃんとレイブンクローの談話室にたどり着けるし、僕はちゃんとハッフルパフに帰れる。何も心配することはないよ」
たったそれだけのことでと冷笑する生徒は、
ブリジットを臆病なアナグマだと揶揄する。自分の身辺よりもハッフルパフの男の子を心配する
ブリジットはある者たちからは奇妙に映っていた。レポート漬けで疲弊した女子の上級生たちは寮を超えた一年生の恋模様をちょうどいい気分転換にしていたが、
ブリジットの言動を甘い感情で包むにはときとして突き抜けすぎている。
「でも、セドリックの帰り道におかしな場所へ階段がつながりでもしたら、助けに行くまで時間がかかるでしょう。先にあなたの寮へ戻ろうよ」
「この道順はホグワーツで一番通い慣れてるよ。目を閉じても帰れる自信があるんだ」
「そんなこと絶対にやめて!」
「うん、
ブリジットが心配してくれるから僕は大丈夫。部屋に着いたらふくろうを飛ばすよ。きみも返事を書いてね、待ってるから」
セドリックはにっこりとして手を振ると、黄色いマフラーをひるがえしてホグワーツの古い廊下を駆けて行った。
ブリジットはその背中を追いかけるか迷い、何度も行ったり来たりを繰り返し、同室の友人たちに見つかってなぞなぞの答えがわからなかったのかと呆れられるまでその場所に留まっていた。
部屋に戻ると、すでにふくろうが嘴で窓をつついていた。
「またセドリックから? あなたたち仲良しね」
「……うん、ちゃんと寮に帰れたみたい」
「そりゃそうでしょ。
ブリジットって、弟離れできてないお姉ちゃんみたい。それとも寂しがり屋の妹? あなたたちは恋人というよりもきょうだいよね」
「冗談で終わらせられるならまだいいですけど、それこそ寮のお姉さま方から
ブリジットとディゴリーの様子をよく聞かれるんですよ。キスはもう済んだのかって、私なんて答えたらいいの?」
「済ませたみたいですって、勝手に答えたら?
ブリジットはもう聞こえてないみたいだし」
「もう……ほんとうにこの子ったら」
ふくろうは足首に返事の手紙をくくりつけられると、翼を広げてさっと飛んでいった。
レイブンクローとハッフルパフをつなぐ階段は手すりの形まで手に馴染み、塔と塔をつなぐ空の道はまるで回廊がそこに見えるかのように澄んでいた。
ブリジットは寒い外気に鼻先を突き出すと、ふくろうの飛翔する尾羽をどこまでも見送った。
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