炎のゴブレットだけが頼みの綱だった。何らかの抜け道を使って古い魔法のかかったホグワーツと外部とをつなぎ、セドリックとハリーを連れ出し、片方を死にいたらしめ、闇の帝王の復活が告げられる。それが単に悪夢として見せるまやかしでないことを、ブリジットはとうとう認めなければならない段階にきていた。
 マクゴナガル副校長に願い出た炎のゴブレットを魔法道具の教材として使いたいという申請は、ダンブルドア校長や呪文学のフリットウィック教授と相談してから決定を伝えると言われたまま、承認も却下もなく時間だけが過ぎていった。
 クリスマスは夜の闇横丁で過ごした。冬至を迎え、魔法の力に目覚めた鳩時計や靴下やモミの木が暴れ回っていたが、スネイプ教授のお使いを果たした以外、大した成果を得られなかった。多くの書籍や魔法薬の材料はブリジットが手を出すには高すぎた。
 誰かに助けを要請すべきだ、という考えがブリジットの前にしぶしぶ現れたのは、第二の課題が終わり、周囲が学期末試験に向けて敏感になりはじめた頃だった。はじめて臨む大掛かりな試験に対して五年生の間では楽観と悲観が混在し、七年生の間では享楽と狂騒が交錯していた。六年生はブリジットのように個人的な興味に没頭するか、胃痛を起こすか、脳みそを空っぽにして過ごすかしていた。下級生たちは試験よりもドラゴンの迫力や水中人たちの暮らしぶり、もうすぐ去ってしまう海外の魔法使いたちの人となりに興味津々だった。
 ブリジットはセドリックの死について他者と共有するのを心の底から嫌っている。口に出したくもない。とはいえホグワーツ全体が学期末に向かって収斂しつつあり、そこには第三の課題が待ち構えており、栄光のゴブレットが輝いている。誰かの手助けが必要だった。
 文通の続いているニコラス・フラメルは所在が遠すぎた。ホグワーツの教授たちはブリジットの言葉にきっと耳を貸さない。ブリジットを監督生として信頼しているフリットウィックも、どこか一人前の魔女として認めている節のあるスネイプも、厳格だが公正な副校長のマクゴナガルもブリジットの言葉には眉をひそめるだろう。ダンブルドアはどこにいるのかわからなかった。
 ブリジットは焦っていた。過去五年間、炎のゴブレットに選ばれることを目標に努力してきた。この半年は、そのゴブレットをどうにかして壊すか、錯乱させるか、盗み出すかを考えて過ごしてきた。ホグワーツの古い魔法についてはもうとっくに調べ尽くした。図書室の禁書の棚にはヒントになりそうなものがどこにも載っていないか、ブリジットの頭ではとうてい理解できないものが書かれてあった。
 ブリジットは焦り、そして自ら罠に飛び込んだ。ムーディから炎のゴブレットについて呼び出しを受け、その誘いに乗ったのだ。

 魔法の目がぐるりと回る。ムーディが研究室のなかを歩き回るたびに義足の固い音が響く。壁に並べられた魔法道具が奇妙な音楽を鳴らしたり光の極彩色を放射したりしている。
 闇の魔術に対する防衛術の教授は、ブリジットが真っ先に相談すべき候補のひとりだ。だがブリジットは彼の人柄を不審に思っていた。
 許されざる呪文を使うときのあの静かな興奮。ブリジットを研究室から締め出したあとにかけられた厳重すぎる魔法の数々。そしてあまりにも狙い澄ましたような今回の呼び出しは、三年生のときに招かれたダンブルドアのお茶会を思い出す。何もかも見通すような眼差しをくれながら、不確かな未来に備えよと警告する彼の声を思い出す。
「お前は闇祓いに向いている、ブリジット
 ムーディの足音が止まった。彼は自らのなかで何らかの決断を下したようだった。
 マッドアイ・ムーディは狂っている。それがレイブンクロー生が共通して持つ彼への評価だ。現役時代は最高の闇祓いのひとりとして多くの死喰い人をアズカバンに送って名を上げ、平和な世の中となった今では酒に溺れて堕落している。暗黒の時代の妄執に取り憑かれたままに生きている。
 闇の帝王が復活すると告げようものなら、彼は喜んでセドリックとハリーをそこに送り込み、自らも義足を引きずって乗り込んでいきそうだった。
「警戒心、猜疑心、恐怖心。お前には闇祓いに必要な心構えの多くがすでに揃っておる」
「……わたし自身、これが行きすぎたものだと理解しています。高すぎる警戒心は足もとをおろそかにさせ、強すぎる猜疑心は仲間割れを起こし、深すぎる恐怖心は闇の心に屈します」
「確かに、口達者なところは闇祓いに向いておらん。やつらには口をひらかせるいとまを与えず先手を取り、耳に入れる価値もない呪いの言葉を阻止せねばならん。お喋りは不可視の敵だ」
「それに、わたしは昔から癒者になることが夢でした。闇祓いとは対極の存在です」
「そうだったな、癒者か、癒者……」
 ムーディは喉の奥で笑った。
ブリジット、お前はなぜそれを自分の職業としたいと言ったかな? わしはその話をどこかから聞いておる」
「寮監のフリットウィック教授やマダム・ポンフリーはご存じです。友人の不治の病を治したいと……あの、炎のゴブレットの件はどうなったのでしょうか?」
 ブリジットはムーディの研究室に一歩入ったまま立ち尽くしていた。会話の中身はまるで進路指導と変わりなく、それがムーディの一瞬でも正気に戻った状態なのか、それとも一年しか教鞭をとらないはずの彼のますます混迷とした内面の現れなのか掴めなかった。
「ああ、そうだ、炎のゴブレット。あれに今でも関心を抱いているのはお前くらいのものだ。代表選手がとっくに決まって次の大会の開催まで小箱のなかで眠りについておる。炎は奥底に淀み、新しい魔法の契約を吐き出すこともなく、のみで削っただけのちんけな木彫りに何を心ひかれる?」
「不特定多数の魔法使いの行動を制限する魔法の仕組みが知りたいのです。幾重にも繊細に、お互いが干渉しないよう魔法がかかっています」
 ブリジットは緊張に乾いた唇を舐めた。
「それにハリーのことも。ハリーは不当に選ばれて試練に臨んでいます。炎のゴブレットの不完全な契約によって……」
「そうだ、おそらく錯乱の呪文によってな」
 再びムーディは笑った。傷跡が引きつり、声が枯れ、魔法の目だけが青白く輝く醜悪な笑みだった。
「だが、あの小心者のカルカロフも、うすのろなマクシームも、イギリス魔法界の英雄ハリー・ポッターが炎のゴブレットを出し抜いたと思っている。第二の課題を終えた今となっては、それはもはや確信に近い考えとなっている。愚かしい。実に愚かしい考えだ。あの小僧に何ができる? これまで何をなしてきた? ……何もだ、まったく、何も!」
 恫喝するような大声に、ブリジットの背中は恐怖で扉に張り付いていた。だがそこはいつかのようにぴったりと閉めきられ、廊下の声すらここまで届かない。
 義足が鳴る。おもむろに近づいては遠ざかり、ムーディは怯えて身動きの取れないブリジットの存在など歯牙にもかけていない。
「俺の献身的な働きをあのお方は知っておられる。おのお方以外知る必要はない……。あのお方が失脚されて以来、俺は泥水をすすって耐え難くも生きてきた。だがどうだ? もうじきすべてはもとの素晴らしき純血の魔法に満ちた世界に戻る。穢れた血は火にくべられ、家畜同然に扱われる……忌々しいマグルどもの薄汚れた顔を視界から排除する手間もなくなるのだ」
 狂気に満ちた片目がふるえてうずくまるブリジットを捉えた。
「お前はどこで知った? 誰からこの計画を聞かされた?」
「知らない……わたしは何も知りません……!」
「ダンブルドアではないだろう。やつは一度としてお前と顔を合わせなかった。では誰だ? お前に秘密を漏らした裏切り者はどこにいる?」
 近くで床が軋んだ。ムーディの魔法によってブリジットの顔が無理やり上向かされる。涙に濡れた目が、今やムーディではない、見知らぬ男の血走った両目と合わさる。
「炎のゴブレットのからくりを探り、闇の魔術の真髄を求め、磔の呪文をこの俺に試させようとする。さて聞こう、お前は誰にそそのかされて裏切り者の魔女に落ちたのだ?」
「わたしは癒者になりたいだけで……」
「ああ、癒者と言っていたな、確かにそうだ。お前は不治の病を治したいと……不治の病!」
 ムーディは笑った。
「お前のそれは、死の呪文のことか?」
 ブリジットの目が驚愕と恐怖で見開かれた。
「疑問は不要だ。お前の行動は監視していた。滑稽だが楽しかったと伝えておこう。お前はこの城でもっとも真実に近かった……俺とムーディの入れ替わりについては裏切り者ともども見抜けなかったようだがな」
「……あなたは、誰なの」
 男は立ち上がった。浮かべられたゆったりとした笑みは、作り慣れていないのか片方にゆがんでいた。
「我が君のもっとも忠実なるしもべ。古き魔法を信奉する闇の魔法使い。だがお前ごときがこの俺の名前を知って何になる?」
 男は優雅な仕草で杖先をブリジットにあてがった。
「磔の呪文を自ら進んでその身に受けたいと願ったな。だがあのとき、お前の真の望みは死の呪文だったのではないか? 死を恐れるあまりに死に魅入られたか、それともこれも、裏切り者による小賢しい駆け引きの一貫か?」
 ブリジットはふるえる唇を動かそうとしたが、その前に冷たく遮られた。
「さて、お喋りはここまでだ。お前の望みをひとつ叶えてやろう」
 ダンスパーティで女性の手を取るように恭しく、しかし高貴な貴族のように傲慢に、男は杖を振った。ブリジットはせめてその杖先から伸びる緑の光を見逃すまいと、急激に展開される目の前の恐怖から顔を逸らさなかった。
 しかし、生み出された呪文は想像とは異なった。ブリジットの喉から悲鳴がほとばしり、体が焼けただれたように熱かった。
 男はうっとりと恋人を見るような眼差しをブリジットに向けた。
「そうだ、その声を聞きたかった。その苦痛を見たかった。お前に促され、あのときは危うくムーディ教授が生徒に磔の呪文を使うところだった。実に巧妙な作戦だったよ、ブリジット
 痛みの衝撃は魔法の切れかかる頃に重ねて行われた。じわじわと体から鋭い熱が遠ざかり、ようやく解放されるのかと希望を持ったその瞬間に再び耐え難い苦痛が全身を襲った。
 のたうち回って乱れたローブから覗く手首は、内面の苦しみとはかけ離れた場所にあるかのように無傷だ。まるでムーディの研究室に呼ばれる前の、友人たちと難しい授業の課題を協力してこなし、ただセドリックの安全を心配するばかりの頃に戻ったように。
 だが苦痛は何度でもブリジットを現実に引き戻す。悪夢の記憶が現実に引きずり出される。
 頭がかすむ。喉がひりつく。
 心が鉛のように深く沈んでいく。
「ああ、愉快だよ。待ち遠しい。もうじき許されざる呪文もその呼び名を変えるときがくる」
「……あ、……する」
「うん、何だ? ようやく裏切り者の名を売る決心がついたか?」
 ブリジットのうつろな目はぼんやりと空中を見ていた。浮遊するムーディの魔法の目がぐるりと回った。
「……ヴォルデモートが、復活する」
「そうだ、その通り。だがあのお方の名前をお前ごときが口にするのは気にくわないな」
 男は再び杖先をブリジットに向けようとして、ふと奇妙な違和感に囚われた。
「ヴォルデモートが復活する。真夜中の競技場……セドリック……が殺されて、ヴォルデモートが復活する……」
 磔の呪文の効果は切れていた。だがブリジットがすすり泣くようにつぶやく言葉の力は、度重なる呪文の後遺症によるものではなかった。もとより、男に任された重要な任務はまだ終わっていない。この段階で生徒のひとりを死にいたらしめるつもりも、廃人にするつもりもはなからなかった。
「……お前は何を言っている?」
 杖を下ろした男の顔にあるのは、少しの疑念と確信に満ちた歓喜だった。特別な瞬間に立ち会っているという実感が、闇に染まった男の心に濃密な深さで染み渡った。
「お前は……、そうか、お前には裏切り者などいなかったのだな」
 男は畏れすら抱いた表情で唾を飲み、その言葉をささやいた。
「本物の予言者か」と。
「何ということだ、俺は自分の不明を恥じねばならん。……素晴らしい。最高だよ、ブリジット。我が君もこれを知ればどれほどお喜びになるだろうか。お前はすぐさま死喰い人の上席に列せられるだろう」
 男の声が興奮に上擦る。その間も、ブリジットは同じ言葉を延々と繰り返していた。
「真夜中の競技場……黄金の炎を手に入れる。新しい夜が明けて……消えたのはふたつ、戻ったのはひとつだけ。魂がひとつ戻らない。闇のなか……セドリック・ディゴリーが殺されて……ヴォルデモートが復活する」
「そうだ、我が君の復活は必ずや果たされる」
 男が杖を振る。それは磔の呪文ではなかったが、暗黒の時代に死喰い人から狙われた多くのマグルや魔法使いたちを深く傷つけ、そして今なお魔法界に禍根を残し続けるものだった。
ブリジットよ、お前の予言によって闇の帝王の復活は約束された……そして我が君の栄光の時代をもう一度、あのお方の前で告げるといい。お前にとってこれほど名誉なことはないだろう」

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