一片の雲が風に流されてさ迷い歩く。荒野の夜は深く、峡谷の激しい水はしぶきを上げ、湿原の茫洋とした景色の上を風が渡り、雲が過ぎた。
 そして広い谷のその先に、美しい花の園が光の波間に踊っていた。明るい日差しを浴びて黄金色に輝くラッパスイセンが、湖のふちを彩るように咲き誇っていた。
 孤独にあてどなく逍遥する老いた雲は、その懐かしさに涙をこぼした。親しい香り、慰めに満ちた陽のあたたかさが額を照らす。
 常に傍らにあったもの、あれこそはまぶたの裏に咲く花の色だ――。

 ブリジットは安堵に包まれて目を覚ました。何か夢を見ていた気がする。喜びに心が躍り、美しさに目が離せず、いつまでもその場所でまどろんでいたいという思いに駆られる幸福な夢。
 それは悪夢ではなかった。悪夢はブリジットのなかをすでに過ぎ去ったあとだった。何もかもが滞りなく終わり、眠りは損なわれることなく貞淑と訪れ、大切なものはブリジットの手のひらからとうの昔にこぼれ落ちていた。

「ホグワーツはあなたの復学をいつでも歓迎します。すでに学期を半分終えていますが、あなたの努力次第では同学年の親しい友人たちと卒業することも可能ですし、このまま療養を続けて来年度に向けてしっかりと体力を回復させるのもいいでしょう。どちらにせよ、マダム・ポンフリーはあなたのために万全の態勢を整えるつもりですよ」
 厳しい顔つきを崩さないものの、最後だけやわらかな色を帯びさせてマクゴナガルは事務的な要件を伝えた。ブリジットはほほ笑みひとつ返さなかった。
 気づけば七年生になっていた。許されざる呪文を受けたこと、それも磔の呪文および服従の呪文を何度も重ねて受けたために聖マンゴ病院に緊急搬送されたことを考慮され、六年生の学期末試験は免除されていた。
 セドリックのいない七年生がはじまっていた。大広間の長テーブルのどこを探しても、寮塔の間をつなぐ廊下のどこを探してもセドリックはもういない。彼のふくろうかホグワーツの空を飛ぶことはもうない。
 セドリック・ディゴリーは死んだ。ブリジットが悪夢として見続けたそのままに、彼はハリーと同時に優勝杯に擬した炎のゴブレットを手にし、忽然と姿を消し、そしてホグワーツに戻ってきた。青褪めた体を芝生の上に横たえて。
 そうした過去のできごとを、ブリジットは夢から覚めた病室で、寮監のフリットウィックから教えられた。ムーディの研究室で苦痛を味合わされたあとからの記憶が途絶えていたが、彼は磔の呪文で憔悴したブリジットにさらに服従の呪文を念入りにかけ、レイブンクロー生として模範的な日常を送らせていたという。魔法の影響でときに奇行に走ることもあったが、学期末試験が迫るなかでそれは特に目立たず、そしてこれまでと同じようにブリジットは第三の課題の観客席に現れなかった。その頃、意識のない体は本来の所有者と同様に古びたトランクのなかに投げ入れられていた。
 あなたが助かってよかった、と何度も言われた。一年生の頃からの友人たちはひっきりなしにふくろう便を送ってきた。ブリジットが重い後遺症に悩まされずに済んだのは、高名な錬金術師が手を貸してくれたおかげだと知った。
 そうしたものに何か好意的な反応を返すべきだとわかっていながら、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。まだ時間はあると思っていた。やれることはまだあったはずだ。にもかかわらず、すべてが高速に早送りされ、ブリジットだけが過去に取り残された。
 セドリックの死を知っているのは、この世にたったひとりだけのはずなのに。
「今後の身の振り方はもう決めています」
 病室のベッドに身を横たえたまま、ブリジットは目線だけで脇机に置いてある手紙を示した。マクゴナガルは眉根を寄せることで難色を示した。
「私は賛同しかねます……」
 首を振り、ため息をつき、だがマクゴナガルには成人した魔女の決定を覆せるほどの力はない。
「何かあれば、いつでも連絡を。あなたのような優秀な生徒が……、魔女が、困難を覚えたそのときは、必ず他人の助けを必要としています。そしてホグワーツにいつなんなりと戻っていらっしゃい。生徒の立場でなくとも構いません。あなたは私たちの仲間なのですから」
 これがマクゴナガルと会う最後になるのかと思えば、ブリジットの平たい心がふと動いた。彼女はブリジットの寮監ではなかったが、変身術の薫陶を六年間に渡って授けられ、監督生として雑用を手伝いつつも高度な魔法の手ほどきを受けた恩がある。そして何よりもひとりの生徒として、彼女は尊敬すべき魔女だった。
「組み分けの儀式のとき……」
 ブリジットが口をひらくと、マクゴナガルは姿勢よく伸ばした背筋をかすかに屈め、ブリジットの声に優しく耳を傾けた。
「わたしにはグリフィンドールに入る道があったかもしれないと、ダンブルドア校長はあとで仰いました。ほんの少しだけ素質があると。もしわたしがホグワーツに戻ることがあれば、そのときはあなたの寮に入りたい」
「嬉しいことを言ってくれますね」
 マクゴナガルはわかりやすくはっきりと、笑みを浮かべた。
「そのときは喜んで歓迎しますよ。帰ったらセブルスに、スネイプ教授にこのことを自慢させてもらいましょう。あなたは彼の悔しがる表情を見たことがありますか? 頬を紅潮させ、唇を端へと曲げて……これはいつものことですが。彼はあなたの才能をとても買っていました。癒者を志していなければ、魔法薬学の助手の職を斡旋したことでしょう……」
 不意に途中で口を閉じ、マクゴナガルはブリジットの揺らぎのない顔を見つめた。そしてシーツに投げ出されている手を握った。
「いいですか、ブリジット。不安なことがあれば談話室の暖炉の火のあたたかさを思い出しなさい。大広間で飛び交ふくろうの風切る音を、肖像画の休みないお喋りを、動く階段で冒険した先の素直な驚きを思い出しなさい。優等生のあなたといえど、ホグワーツ城を冒険したことくらいあるでしょう」
 ブリジットは頭をかすかに傾けた。
「ええ、セドリックと」
「……そう、セドリックと。彼はさぞかし騎士のようにあなたを守ったでしょうね」
「かもしれません。わたしが彼を守っているつもりでした」
 マクゴナガルの言葉に従ってホグワーツでの思い出をひとつひとつ心の内側から取り出していると、やがて病室からひとの気配が薄らいだ。あたりが暗くなっていた。病院で目覚めてから、朝と夜の違いに気づくのがいつも遅れる。これも許されざる呪文の影響だろうかと自らの症状と知識を照らし合わせようとして、ブリジットは考えるのをやめた。癒者となることはすでにやめていた。
 ブリジットはルーモスで明かりをつけ、手紙をひらいた。封筒には魔法省の封蝋が押され、なかには部局長の読み解けない署名が書かれてあった。手紙の内容を追認する謎めいた筆跡を目でなぞる。
 魔法省神秘部。そこからの勧誘の手紙だ。NEWTを受験すらしていない魔女の功績を認め、特別に席を用意し、研究費用さえすでに確保しているという。ブリジットはこの誘いを受けるつもりでいる。

 ブリジットに同僚はほとんどいない。神秘部に所属する者はそれなりの数にのぼるようだったが、ブリジットと同じ研究に従事する魔法使いはほとんどいなかった。
 神秘部のフロアに下りると、魔法の揺らぎを肌で感じる。何百年もかけて集められた魔法道具のおびただしい気配と、それらから人間の狂気を保護する守りの呪文。中央ホールですれ違う人の影はまばらだった。
 彼ら神秘部の魔法使いはブリジットの過去について同情的だったが、表面的でもあった。心からの共感を寄せられることはなく、ダイアゴン横丁でローブが触れ合った程度の交流しか持たなかった。一度も顔を合わせたことのない同僚もいた。顔は知っていても、一向に名前を明かさない同僚もいた。神秘部に所属する魔法使いは一般に無言者と呼ばれている。ブリジットの同僚たちはそのなかでも特に言葉をあやつることに消極的だった。
 あるとき、ブリジットは仕事のために国際魔法協力部のフロアを訪れ、そこで侮蔑的な言葉を投げつけられたことがある。詐欺師、売女、その他口にすることも躊躇うような罵倒の数々。ブリジットは無言者らしく唇を引き結び、表情をそげ落とした顔で、相手の目をじっと見つめた。彼は根拠のない恐怖をその目に宿らせると、ブリジットの前から捨て台詞を吐くこともなく撤退した。
 ブリジットは自分がどのように呼ばれているのかを知っている。ある者はブリジットを狂ったバンジーと言った。懐かしい言い回しだ。そうであることを何度も否定し、ときには肯定し、やがて闇の魔術の前に屈することになった。
 そしてある者は、ごく少数の者たちは、ブリジットを本物の予言者だと言った。神秘部で四年ぶりにふたりきりで会ったダンブルドアは、口にはしないまでも後者であることを雄弁にその青い瞳で語っていた。
「あなたがわたしの職場に現れるのは、あまりいい予感がするとは言えません」
「さよう。すでにその予感は的中している。君にはこの音が聞こえておらんのかね」
「……音?」
 ブリジットはあたりを見回した。壁が穿たれ、魔法道具は床に散乱し、天幕のように張られていた天井のベールが片側から剥がれて赤や緑に輝く星々の運行を露わにしていたが、悪い予感を裏付けさせるような音は聞こえていなかった。
 ブリジットの耳には、ささやく声がずっと聞こえていた。何層にも重なって響き合い、複雑に絡み合い、もう失われた過去の現象について誰かに伝え残そうとする声が耳にこびりついて離れない。
 ブリジットは円形ホールの扉のひとつを迷いなくあけた。そこでは海に降りそそいだ星くずが浜辺に打ち寄せられたあとのように、きらめくガラス片が床一面に広がっていた。
 棚から落ちた水晶玉の中身が半透明の幻影として立ちのぼっている。そのささやきが床から、そして耳もとから聞こえる――かつての自分の声も。
 予言者などと呼ばれる身としては、踏み荒らされたこの部屋の惨状を見て嘆かわしいと憤るべきなのかもしれない。喜ぶべきではないのかもしれない。
 不意に赤い閃光がブリジットの脇を通り過ぎ、水晶玉のひとつをさらに破壊した。
 ダンブルドアが杖を掲げていた。その先で、おそらくブリジットに呪文を放ったであろう魔法使い、どう見ても神秘部の同僚ではない、死喰い人たちが魔法の縄によって搦め捕られていた。
 そこに彼が現れた。

 闇の帝王、ヴォルデモート卿、我が君。名前を言ってはいけないあの人。ブリジットが神秘部に勧誘された発端、その復活を予言した相手。
 ヴォルデモートはブリジットに気づいたようだった。
「見よ!」
 ひび割れた哄笑の声が神秘部のフロアに響く。ヴォルデモートはブリジットを見て喜んでいた。闇に染まった心が歓喜に満ちていた。誰よりも、ブリジットが神秘部の魔女となってから誰よりも、彼はブリジットの存在を喜んでいた。歓迎していた。
「闇の帝王の復活を予言した大魔女が、慎ましくも自ら恭順を示すために馳せ参じたようだ」
 手足を縛られた死喰い人たちの何人かが控えめながら凶悪な眼差しをブリジットに送った。闇祓いたちは満身創痍だった。ハリーは困惑した顔でブリジットに杖を向けるべきかどうか迷っていたが、彼がなぜここにいるのか、ブリジットの方こそ把握しかねた。
「おお、ブリジットよ、我が信奉者よ。次はどのような予言を聞かせてくれる? どのような新しい世界を望む? その深い忠義心に応えてお前の望みを叶えてやろう。手始めに、そこの老いぼれの死を呪ってみせよ」
 彼が現れてから、ブリジットの耳を塞ぐ予言の声は唱和をはじめ、ひとつの言葉をささやいていた。ブリジットの内なる声、ブリジットのたったひとつの望み。視界は明るく、聞こえる音は明瞭だった。ヴォルデモートの傲慢な声が聞こえる。
 ブリジットは一歩前に進み出た。一斉に杖が上げられる。ダンブルドアの手から逃れた死喰い人の、よろめき立ち上がった闇祓いの、まだ若いハリーのものが。ダンブルドアはすでに杖先をぴたりとヴォルデモートにあてがっていた。
 ブリジットの唇の端がふっと持ち上がる。円形ホールの奥からは腰の引けた魔法省職員たちの浮き足立った姿がちらりと見えたが、その動揺はあまりに遅く、見当違いのものに思えた。
 扉から吹き込むかすかな風の音を合図にダンブルドアとヴォルデモートによる激しい無言の打ち合いがはじめられ、ハリーが石像に庇われ、ブリジットの横で円柱が崩落したが、そのどれにも眉ひとつ動かさなかった。
 あれほど躍起になって学ぼうとした闇の魔術に対する反対呪文を唱えるまでもない。杖すら用いる必要がない。
 魔法の言葉はブリジットの口からなめらかに紡がれた。それは神秘部のフロアの隅々にまで染み渡った。
「わたしはかつて、ひとつの予言を成就させた。友の死だ。セドリック・ディゴリーは夜毎もたらされる予言の通りにヴォルデモートの復活によって死に追いやられた」
 今は亡き友人の穏やかな顔が思い出される。優しく穏やかで、他者への愛情に満ち、しかし優等生と褒めそやされるばかりではなかった彼の年相応の顔が今でもまぶたの裏によみがえる。それは死に顔ではない。ブリジットは彼の死に立ち会えなかった。
「そしてわたしの生涯において、最後の予言をこれから行う」
 長いローブの袖から覗く指先がまっすぐに差し向けられる。その予言の対象者が誰であるのかを周囲の目にもはっきりとさせた。
 侵入者たちによって荒らされたこのフロアは、魔法界において最も深遠なる神秘部の領域であり、不確かな事象の蓄積であり、そうした奇妙な魔法の残響が弁舌豊かな者たちへどのような効果をもたらすのか、舌先に言葉を乗せるがごとに克明になった。自らの信念を誰よりも固く信じている者たち、この場にいるすべての者たちが立場を超えて凍りついたように身をすくませ、ブリジットの声に否応もなく耳を傾けさせられているのがわかる。自らの正当性を信じて疑わないがために、抗いがたい魔法の前兆を前に心奪われている。
 昔からダンブルドアはブリジットが持つ四つの寮の素質を見抜いていた。グリフィンドールが誇る勇敢さを、ハッフルパフが懐に抱く忍耐強さを、スリザリンの礼節に潜む狡猾さを、そしてレイブンクローが何よりも尊ぶ曇りのない英知を、ブリジットはその身に少しずつ持ち寄っていた。
 ブリジットは神秘に属する魔女だ。あれほど恐れ、遠ざけようとした悪夢の記憶がブリジットに復讐の力を与えようとしている。
 後ろを振り向けば、これまでたどった道のりに隙間なく石敷きが並べられているのが見える。そこを疾駆するセストラルの影を誰も止めることはできない。
「わたしは予言する。ヴォルデモートよ、おまえはこれよりのちに、花のしおれる束の間のひとときを苦悶にあえぎ、己の罪過をわびしく数え、何の望みも果たせず失意のままにこの世を去るだろう。その無残な死を、誰もが喜びのうちに迎えるだろう」
 忌々しげに見開かれた両目がブリジットを射殺さんばかりに睨みつける。しかし、どんな許されざる呪文も本物の予言者の宣告の前では何の意味もなさない。彼が現れたことで本物の予言者となったブリジットを疑う者はどこにもいない。
 ブリジットは傲岸に笑った。
 セドリックの死とともに悪夢は過ぎ去り、真夜中に恐怖で跳ね起きることはもうない。彼のために涙を流すことも、死の影に怯えることももうできない。ホグワーツの代表選手にすらなれなかった女子生徒が今や、名前を呼ぶことすら憚られる暗黒からよみがえった魔法使いをおびやかす存在となっている。
 偽りの言葉を唇に塗りつけて。
 彼の恐怖が手に取るようにわかった。それはブリジットが六年間苦しみ抜いたものだった。それこそが偽りであればどれほどよかっただろうかと思う。
 本物になどなりたくなかった。望んだことなど一度もなかった。
「予言者たるブリジットがヴォルデモートに死を告げる。苦しみは不可逆、魂は肉体に永年と服従する。――この予言は必ずや成就されるだろう」

1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7