ブリジットの目の前に青白く揺らめく炎がある。それは木製のゴブレットの縁を不形の舌先で舐めながら、自らに宿る魔法を熾火にしきりに燃え盛っている。
何度も夢に見た存在がとうとう手の届く場所に置かれていた。いっそこれを破壊すれば苦悩から逃れられるだろうかと思い詰める
ブリジットの姿は、傍目からは代表選手に立候補すべきかを悩む生徒のひとりに見えた。
周囲には、名前の書かれた羊皮紙をゴブレットに受け入れられて喝采を浴びる者や、ダンブルドアの引いた年齢線に弾かれて友人たちから小突かれている者たちで賑わっていた。
「
ブリジット、ほんとうに挑戦するつもりなの?」
暗く沈む
ブリジットに心配そうに声をかけたのは同じレイブンクロー寮のチョウだ。彼女こそ年齢制限さえ問題なければゴブレットに自分の名前を投じただろうが、今は面倒見のいい先輩のこのところの体調不良をひどく気にかけていた。
「学期が始まってからずっと、疲れた顔をしているでしょう。昨日の晩餐会も途中で退席していたから……私、
ブリジットが選ばれたらもちろん応援するけど、無理をしてほしくないの」
「ありがとう、チョウ」
ブリジットは真剣に自分の身を案じてくれる後輩の肩にそっと触れた。彼女はどこか
ブリジットと似ていた。見た目や才能の話ではなく、どんなことにも正面から真面目に取り組む彼女の、そのためにかえって傷つきやすいナイーブな感性が
ブリジットの内面で共鳴していた。とりわけよく懐いてくれるチョウもきっと同じ気持ちを抱いているのだろう。
だから、彼女がクィディッチの選手となったのには素直に驚いたし、納得もした。彼女は勇敢だ。自分の心に素直に耳を傾ける勇敢さがある。
ブリジットはいまだに競技場へ足を運べていない。そこでどんな絆が生まれ、どのように育まれるのかを知らないでいる。
かわいい後輩が悲しみに嘆く姿を見たくなかった。それだけでなく、彼の両親や彼に期待を寄せる教師たち、取り囲む大勢の友人、遠目から羨望の眼差しを向ける生徒たち、そして何よりも自分自身の恐怖ために、今日この日まで努力してきた。マダム・ポンフリーからは癒者よりも患者になりたいのかと叱られながらも、念願であった監督生のバッジを受け取り、OWLの試験で好成績を残し、レイブンクローの名に恥じない生徒を目指してきたつもりだ。
ブリジットは羊皮紙を握りしめて年齢線を跨いだ。背後で囃し立てる声が上がる。年齢を偽ったウィーズリー兄弟は、同じ学年でありながらほんの少しの差に悔しそうだった。
青白い炎は
ブリジットを拒まない。周囲の喧騒とは無関係に魔法の炎を吐き出し続けている。
壊したい。何もかも放り投げて、迫り来る悪夢から目を逸らし、すべては嘘だと叫びたかった。消失呪文はきっと彼ら双子でも試していないに違いない。
「……
ブリジット?」
聞き馴染みのある声に
ブリジットは少しだけ振り返り、ほほ笑みを作り、やや無気力にも見えるような指の動きで炎のゴブレットに自分の名前を投げ入れた。
「あなたも来ると思ったわ、セドリック……そういえば、手紙でしかまだ伝えていなかったね。十七歳の誕生日おめでとう。あなたの未来に多くの幸せが訪れることを、心から祈ってます」
「……うん、
ブリジットにも」
いつものはにかんだ笑みを見せてくれるかと思ったが、セドリックは目を細め、ゴブレットの前から退いた
ブリジットの両手を優しく、しかし有無を言わさない調子で手に取った。お互いの指のなかで一片の羊皮紙がくしゃりと丸まった。
「きみの成人祝いをやらせてくれないかな、もう一度、僕たちふたりで。どうしてだかきみのお祝いに僕は呼ばれなかったみたいだから」
「淑女の集まりに参加したいなんて無作法よ」
「そうだね……、成人して、きみはどこか遠くへ行ってしまったような気がするよ。教室でも、図書室でも……監督生の仕事でも。僕を避けているね」
「そんなこと」
ブリジットはセドリックの手を強く握り返した。今度こそ消失呪文をかけたかった。指に触れる羊皮紙の感覚がひどく気に障った。
「あなたも代表選手に立候補するんでしょう」
「うん……もしかして僕たち、ホグワーツ代表の座を賭けたライバルになるってことかい?」
ようやくそこで、セドリックはいつもの笑みを見せた。いつもの見慣れた穏やかな顔。
「どうしてそんなに嬉しそうなの」
「どうしてかな、きみはいつも僕の望みを優先してくれるから、きみがこうした大会に興味があったなんて気づかなかった」
それはただの大会ではないからだ。セドリックの生死がかかっている大会だからこそ、
ブリジットは自分の持てる能力すべてを尽くしてこの日のために準備してきた。そんなことを口にするのは、この段階にいたってもまだ恐ろしくてならなかった。
「どちらが代表選手に選ばれたとしても……いや、ふたりとも選ばれなかったとしても、成人のお祝いをやろう。湖のそばのいつもの場所でも、空き教室の隅っこでも、何だったらレイブンクローの談話室でだっていい」
「模範的な監督生のあなたが堂々と校則違反なんてしたらお祝いどころじゃない。みんなびっくりしちゃう」
「それだけ本気ってことだよ……いいね?」
ブリジットは目を伏せた。六年生になってからセドリックの顔を見るのがつらかった。すべては悪夢の通りに滞りなく行われ、数百年ぶりの対抗試合まではじまってしまった。
「いいわ……でも、みんなでやりましょう。学期末に、みんなで魔法の花火を打ち上げましょう。寮の所属を超えて、グリフィンドールやスリザリンの子たちも呼んで。だってそうでしょう、今年はホグワーツが一体となる年なんだから」
「きみがそれで喜んでくれるなら」
「喜ぶよ。あなたとお祝いできるならとても……」
もうそれ以上は涙を隠しきれそうになかった。
ブリジットは自ら手を離した。
セドリックはハッフルパフの友人たちの応援を背に炎のゴブレットに羊皮紙を投じ、その晩、炎は彼の名前を吐き出した。
「ハリー!」
グリフィンドールの賑やかな集団から離れてひとり教室を移動するハリーの腕を引いて、
ブリジットは動く階段に飛び乗った。
「えっ? 何!?」
「急にごめんなさい、あなたをずっと探していたの。どうしても……あなたと話がしたくて」
「……
ブリジット?」
階段はフィルチが雑巾を振り回しながら去ったあとの誰もいない廊下に接続された。ミセス・ノリスが暗がりから顔を出し、降り立ったふたりの足もとを走り抜けていった。
ハリーは
ブリジットの襟もとにさっと目を走らせ、緊張に強張らせていた頬を少しだけゆるめた。
「うん、いいよ……僕がちょっとくらい授業に遅れたって、みんな気にしないから。どうせ対抗試合のことでまた呼び出されたんだと思うだけだから」
どこか投げやりな言い方に
ブリジットの胸が痛んだ。彼が自ら望んで四人目の代表選手に名乗りを上げたわけでないことはわかっている。これから立ち向かう課題が四年生のまだ未熟な魔法使いにはつらく困難なものであることも、それどころかローブにいくつもの勲章を並べた誉高い魔法使いであったとしても過酷な道のりであることはわかっている。
だがそれでも、
ブリジットは尋ねないわけにはいかなかった。
「ハリー、あなたがどうやって死の呪文から逃れたのか、どうやって『例のあの人』から助かったのか教えて欲しいの」
告げた途端にハリーの見せた、信頼していた相手に裏切られたような表情が苦しかった。
「あなたが赤ん坊のとき、死の呪いは、あなたの額の傷は……」
「僕の両親はそれでヴォルデモートに殺された!」
びくりと
ブリジットの肩がふるえた。ハリーの体もふるえていた。
ふたりだけの廊下に深いため息が響く。やがて顔を上げたハリーの表情はもう穏やかで、目には同情の色さえ浮かんでいた。
「……
ブリジットは、セドリックが選ばれてショックなんだね。自分の名前が呼ばれなかったことよりもショックなんだ……セドリックの軽い切り傷ひとつでもすぐに動揺するくらい臆病だから」
「……グリフィンドールの男の子はみんなわたしのことを臆病者だって言うの。昔はよく泣き虫
ブリジットとからかわれてた」
「セドリックが心配だから?」
「そうね、とても。怖いくらいに」
「でもセドリックは、第一の課題が何かもう知ってる」
「……え?」
ブリジットは目を見開き、気まずそうにうつむくハリーを見つめた。
「まさか」
脳裏に悪夢の記憶がよみがえった。急にぽっかりとあいた暗闇に放り出されたような感覚にブリジットは襲われた。
セドリックもあれと同じものを見ているのだろうか。炎のゴブレットに選ばれる自分自身を、対抗試合で活躍する自分の姿を見ているのだろうか。そして自らの死を、倒れ伏す自らの体を。まさか、そんなことがあり得てもいいのだろうか。
その想像は身慄いするほどおぞましかった。
「
ブリジット!」
「……あ」
腕をつかまれ、ハリーが心配そうに顔を覗き込んでいる。
くしゃくしゃ頭の見慣れた後輩。寮は違っても、何かと孤立しがちな彼に
ブリジットはよく声をかけていた。彼の痛切な声が忘れられなかった。
ハリー・ポッターをもうバンシーだとは思えない。友人との関係に悩み、魔法界の常識に苦労し、毎年のように面倒ごとに付きまとわれる自分自身の不幸な立場に怒っている。そして彼は、そうした悲劇を自分の力で打ち払ってきた。
セドリックにとってのバンシーはハリーではない、
ブリジットだ。髪を振り乱し、悲劇を歌い、彼が死ぬのをただ待っている。
「ドラゴンのことは僕が教えたんだ。だからセドリックがズルしたとか、そんなんじゃないよ。他のふたりももう知ってる、これで試合の条件が振り出しに戻っただけだ」
「……ドラゴン?」
ハリーはあっと口を押さえたが、
ブリジットはまるで白昼夢でも見るように、目の前に見知っている光景が広がった。翼が空を打つ。
言葉が喉の奥から転がり出た。
「もっとも危険な炎があなたを待っている……でも恐れないで、あなたは正しい炎の呼び名を知っているから」
ブリジットはハリーの反応を待たずに踵を返した。つま先が床を蹴っているのか、それともゴーストのように虚空を飛んでいるのか自分でも定かでなかった。
危険な炎があなたを待っている。それを早くセドリックに伝えるべきだ。一番手のセドリックの挑戦相手はスウェーデン・ショート・スナウト種。最後に残ったハリーの相手はハンガリー・ホーンテイル種。悪夢の通りならその組み合わせが正しいはずだが、自らの声を耳で聞いた今でもいまだに自信を持てなかった。
悪夢が真実とは限らない。これまで正しかったことが、これからも正しいとは限らない。
そうやって否定しなければ、セドリックの死が真実となってしまう。まだ死の呪いの反対呪文が見つかっていないのに、彼の避けられない死を認めることになってしまう。
ブリジットはOWLを通過した者だけが受けられる実践的な闇の魔術に対する防衛術の授業で、人間に使用することを禁じられている許されざる呪文をその身に受けた。そして見事に打ち勝った。だが、今期から新しく着任した教授は
ブリジットを褒めることはしなかった。お前が服従の呪文に抗えたのは、その予告があったからだと冷静に指摘した。
実のところ、前任のルーピン教授の退任をもっとも惜しんだのは今の七年生の先輩たちだった。彼らは重要なOWLの年にあのロックハートから薫陶を受けるはめになり、翌年度からはじまったルーピンの真っ当な授業に感涙さえした。彼の授業を受けてから、レイブンクロー生は独自に設けた自分たちの科目の幼稚さを恥じてやめ、夏休みの間中、彼の続投を熱烈に希望する手紙を出し続けた。目前の重要な試験を思えば、将来に渡る人狼の危険性を忘れることにしたらしい。ロックハートは悪い意味で例外的だったが、その前の教授も、その前の前も、そのもっと前のブリジットが知らない教授たちと比べてもルーピンは生徒たちの心をつかんで離さなかった。そうした要望はあえなく却下されたのだが、新しく赴任したムーディ教授の指導方針に、NEWTを控える最上級生はもちろんのことすべての学年の生徒たちが戦慄した。
「磔の呪文をかけられたい?」
ムーディは胡乱な眼差しでレイブンクローの女子生徒を見た。顔面は傷跡で引きつり、魔法の義眼はあちこちせわしなく動いているためにどんな状況下でも相手に威圧感を与えたが、今はさらに深い疑念を抱いているようだった。
「知識だけでは満足できぬか」
「他のどんな呪文を習得できたとしても、許されざる呪文の行使は固く禁じられています。でも教授なら、それが生徒に必要だと思えば学ぶ機会を与えてくれますよね?」
「わしの生徒のなかにこうまでして堂々と闇に魅入られた者がいるとはな。ダンブルドアは何をしておる」
「私は具体的な対抗呪文を学びたいだけです」
「あれは好奇心で試すようなたぐいのものではない。お前の名前は何といったか?
ブリジット? お前のことは知っておる、一年の頃から不吉を口にし、自らの不幸に浸る愚か者。そしてお前は手のつけられぬほどのうぬぼれ屋だ!」
木製の義足が、研究室に立てかけられた鏡を揺らすほどの力強さで床を叩き、
ブリジットはとっさに教授に対して無言呪文を放った。
ただれた唇が最初の一語を壊れたテープで引き伸ばされたようにゆっくりと形作る。口の動き、吐き出される呪文の想定しうる最大効果を目まぐるしい速度で考える。
「サルビオ・ヘクシア」
ブリジットは妨害呪文によって生まれた隙をつき、正確な発音と確固とした想像と杖の動きによって自分に向かって飛んでくる呪いを、破るのではなく回避することで対抗した。それは磔の呪文ではなかった。
ムーディの杖から生まれた魔法は空中で急激に曲がり、机の上に置かれた古びたトランクにぶつかって激しく音を立てた。
「ふむ……ふむ……!」
ムーディは杖を下げ、感嘆の声を出した。
「口先ばかりのやかましいワタリガラスではないようだな。自ら望んで許されざる呪文の犠牲者となりたいか……面白い」
床に落ちたトランクがごとりと音を立てた。
ブリジットが新たな脅威に身構えたその瞬間、
ブリジットの体は正面からまともに浴びた呪文によって研究室から吹き飛ばされ、廊下の壁に打ち付けられた。
近くで巻き添えを食らった下級生たちの悲鳴が聞こえる。杖を構えたまま顔を上げた先、ムーディの研究室の扉は、永久粘着呪文でもかけられたように音も明かりも漏らさずぴったりと閉められていた。
癒者になるためには、少なくともNEWTで魔法薬学、薬草学、変身術、呪文学、そして闇の魔術に対する防衛術の試験を優秀な成績で通過しなければならない。OWLとNEWTの間に挟まれたつかの間の余暇を楽しみつつ、今年いっぱい行われる一大イベントにうつつを抜かしつつ、六年生は次年度末に向けて膨大に出される授業の課題に追われていた。
ブリジットはそれに加え、人間に生まれつき備わる大いなる不治の病――死を避ける方法についても考えなければならない。セドリックの死因は、知識をつけた
ブリジットの目から見れば明らかだった。
死の呪文への対抗術が所詮は学生でしかない
ブリジットにおいそれと思いつけるはずがなかった。三年前、ホグワーツにあの有名な賢者の石が秘蔵されているという噂がまことしやかにささやかれたが、今さら
ブリジットが不躾にもフランスのニコラス・フラメルに送った手紙の返事によれば、彼の生成した賢者の石はすでに破壊されたあとだという。この手紙も若者との交流を心置きなく満喫するためのいわば残り少ない老後の楽しみらしかった。
ブリジットは途方に暮れていた。このままでは友人が死んでしまうのです。そう手紙に書きたい衝動に駆られたが、言葉にすればほんとうにそうなりそうで怖かった。
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